緑山は象牙彫刻(当時の呼称は牙彫〔げちょう〕)[注釈 4]の分野で活躍し、野菜や果物を中心に多くの作品を制作した。日本において、牙彫は江戸時代から明治後期にかけて隆盛したが、大正には非効率な仕事が厭われてブームが沈静化した。緑山はその時期に牙彫に挑んだ彫刻家である[9]。緑山の作品は現存するだけでも50数点以上あり[要説明]、「竹の子と梅」は安藤の最高傑作とも言われる。 日本において美術工芸品に象牙が使用された古い例は正倉院宝物や中尊寺金色堂などがあるが、牙彫が本格的に始まったのは江戸時代であり、当時大流行した根付や印籠も象牙で作られることがあった。明治期には外貨獲得のため、国策たる殖産興業の一環として日本の工芸品の国際博覧会への出品と輸出が積極的に進められ、牙彫の海外輸出も増加し、職人にとっては「牙彫ブーム」と呼ばれる最盛期が訪れた[注釈 5]。一例として1900年に開催されたパリ万博に