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追悼に関するtxmx5のブックマーク (314)

  • 「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン by 金野ONNYK吉晃

    text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野Onnyk吉晃 photos: from Onnyk’s private collection(「ナムジュン・パイク展」の図版目録より)*口絵は、おそらくブレッツマンのデザインによるナムジュン・パイク展のポスター(’63) 「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン(享年82) 二十歳の私は「フリージャズとフリーミュージック」の差異さえわからず、彷徨していた。前衛、実験、ラディカル、即興、過激というのは同義に近かった。ヘンリー・カウもシュトックハウゼンも一緒くたになっていた。 当時はまだ「壁」によって分断されていた西ベルリンに拠点を置くFMP (Free Music Production)は、1969年に創設され、マイナーシーンの代表的レーベルだった。私はペーター・ブレッツマンはその創始者の一人、かつ欧州を代表するミュー

    「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン by 金野ONNYK吉晃
  • R.I.P. Wayne Kramer(1948 - 2024) | ele-king

    Home > News > RIP > R.I.P. Wayne Kramer(1948 - 2024) - 追悼:ウェイン・クレイマー ぼくの世代でMC5といえば、たとえばザ・KLFの大ヒット曲 “What Time is Love” でサンプリングされた “Kick Out the Jams” の冒頭のMCだったりする。「キック・アウト・ザ・ジャムス、マザーフ**カー!」。もっともこれは、ザ・KLFの前身ザ・JAMsにひっかけた洒落でもあるわけだが、それはそれとて、このフレーズが60年代カウンター・カルチャーのもっとも威勢が良く、もっともぶっ飛んで、もっとも有名な掛け声であることは間違いない。だいたいこれは、音楽史上最初に録音された「マザーフ**カー」であり 「フ**ク」であるという名誉から、リリースからしばらくして問題の部分は「ブラザーズ&シスターズ」に差し替えられている。いまspo

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  • R.I.P. Amp Fiddler | ele-king

    デトロイトが生んだ偉大なミュージシャンのひとり、アンプ・フィドラーことジョセフ・アンソニー・フィドラーの訃報が12月17日に届いた。1958年5月17日デトロイト生まれの享年65才。巨大なアフロ・ヘアとヒゲがトレードマークのキーボード奏者/シンガー/作曲家だが、2022年より原因不明の病に罹って闘病生活を送っており、地元デトロイトでは12月10日より治療費を賄うためのクラウド・ファンディングが開始されたばかりだったが、その矢先のことだった。 彼の訃報はジョージ・クリントン(Pファンク)やクエストラヴ(ザ・ルーツ)などのSNSで伝えられたのだが、誰もが知る著名なミュージシャンというわけではなく、ソロ・アーティストとして活躍するよりも、スタジオ・ミュージシャンとかバック・ミュージシャンといった仕事で力を発揮するタイプだった。デトロイトにはモータウンの昔からそうした裏方仕事をするミュージシャンが

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  • R.I.P. Damo Suzuki | ele-king

    「今」だけを生ききった旅人 松山晋也 昨日(2024年2月10日)の深夜にダモ鈴木さんの訃報をツイッターで知った時、まっさきに思ったのは、やっぱりダモさんの最新インタヴューもとっておくべきだったな、ということだった。2020年秋に私の編集・監修で出た『カン大全――永遠の未来派』には、人の回顧録『I Am Damo Suzuki』の紹介記事(崎山和弥)と、セレクテッド・ディスコグラフィ(小柳カヲル)、そして私が96年にやったインタヴュー原稿を掲載したが、総ページ数に制限があったため、最新情報までは載せられなかった。まあ、ガン治療で大変そうだと聞いていた上、インタヴューしても肝心なポイント(言葉)はだいたい予想できるという思いもあったわけだが。 ダモさんには過去4回インタヴューした。「日でのちゃんとしたインタヴューは初めて」だと言っていた最初の取材はたぶん88年だったと思う。70年代後半か

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  • ダモ鈴木死去:ロマン優光連載278

    一人でそこに座ってる 頭のイカレた奴 虹の上から小便 我らがヒモと呼ぶ ダモ鈴木の名を聞くと、真っ先に 『Tago Mago』に収録されている『Oh Yeah』のこのフレーズが脳裏に蘇る。CANの夢幻的でありながら覚醒感を伴う反復リズムの中に突如切り込んでくる鮮烈なイメージの日語歌詞。初めて聞いた時の衝撃が、そのまま脳に刻み込まれてしまっている。 ダモ鈴木と言われても知らない人も多いだろう。彼がボーカリストとして所属していたCANは商業的に大成功したバンドではないし、マニアックな音楽好きでなければ、その名を知る人は少ないだろうし、今だから知る人が少なくなったとかではなく、昔からそうだと思う。 ただ、CANというバンドの与えた音楽的な影響は広範囲に渡り、CANの産み出したものの影響下の音楽に接している人、間接的にその産み出したものの恩恵にあずかっている人は多いはずだ。

    ダモ鈴木死去:ロマン優光連載278
  • 菊地雅章=音楽にまみれたピアニストの美意識・生き様を、坪口昌恭が思い出と共に綴る | Mikiki by TOWER RECORDS

    花道に至るエピソード 〈アブストラクトなジャズ、しかも変拍子でクラバー達を踊らせる〉 〈DCPRG〉立ち上げ当時、菊地成孔が提唱したアイデンティティーであるが、筆者が菊地雅章氏(以下プーさん)と最も関連づけられるのはアルバム『SUSTO』の1曲目“CIRCLE/LINE”のカヴァーであろう。この曲のためにヴィンテージ・アナログ・ポリシンセProphet5を新調して臨んだくらいモチベーションの高まる楽曲であった。 80年代初頭といえば日人ジャズメンもフュージョン真っ盛りであったが、“CIRCLE/LINE”ほど一線を画して聴こえたものは無い。7/8拍子で繰り返されるミニマル・ビートの上で多彩なシンセ・サウンドがちりばめられているが、調性も良くわからずなんとストイックなんだ!と。 その頃のスタジオ写真を見ると、主にOberheim、KORGのシンセや、YAMAHAのオルガンがガレージのような

    菊地雅章=音楽にまみれたピアニストの美意識・生き様を、坪口昌恭が思い出と共に綴る | Mikiki by TOWER RECORDS
  • 高橋幸宏 音楽の歴史 | ele-king

    高橋幸宏は1952年6月6日、東京で生まれた。父は会社経営をしており、自宅は200坪の敷地に建ち(もともとは天皇の運転手が建てた家だそうだ)、軽井沢には別荘を持っていた。 後に音楽プロデューサーとなる兄に感化され、早くから音楽に親しみ、小学生のときにはドラムを始めている。このドラムという楽器を選んだ理由にはドラムの練習ができるほど広い家に住む子がなかなかいないからだったと後年明かしている。 中学生のときにはユーミンが参加することもあったバンドを組み、高校生のときにはもうセッション・ミュージシャンの仕事を始めていたのだから早熟と言うほかないだろう。ドラムのうまい高校生がいるという噂を聞きつけて大学生だった細野晴臣が会いに来たのも高橋幸宏の高校時代のこと。大学に入るとガロに一時在籍するなど、すでにプロのミュージシャンとしての道も歩き始めていた。 そんな高橋幸宏の転機となったのは、旧知の加藤和彦

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  • R.I.P. Sophie | ele-king

    野田努 スコットランド出身のエレクトロニック・ミュージッシャン/DJのソフィー(Sophie Xeon)が2021年1月30日、事故によって亡くなった。アテネの自宅で満月を見るため手すりに登った際、バルコニーから滑り落ちたという。没年34歳。なんということか。 ソフィーの並外れた才能はひと言で言い表すことができるだろう。オウテカと〈PCミュージック〉の溝を埋めることができるおそらく唯一の存在だったと。トランス・ジェンダーの彼女は10年代におけるクイア・エレクトロニカ(アルカないしはロティックなど)を代表するひとりでもあったが、同時にヴェイパーウェイヴと並走していた、“楽器としてのPC” を使う世代によるエレクトロニック・ポップ・ダンス・ミュージックにおけるもっとも前衛的なアーティストでもあった。 アンダーグラウンドにおける彼女の最初の名声は、グラスゴーのダンス・レーベル〈Numbers〉の

    R.I.P. Sophie | ele-king
  • interview with Akio Yamamoto | ele-king

    ——山朗生が8ヶ月のドライヴを経て持ち帰ってきたものとは? Ele-king 1998年6月号より (*一部エディットしています) およそ8ヶ月ものあいだ、山朗生と佐脇興英のふたりを乗せた車は夜の高速道路を走っていた。タンツムジークのプライヴェイト・ロード・フィルムの撮影のためである。車のなかから、映像を担当した朝比奈学の8ミリ・カメラが外の世界を覗く。撮影は震災後の神戸にはじまって、新宿の新大久保、福生、横須賀、そして大阪の西成へと足を伸ばす。ときにはヤバい場所にも侵入して、フィルムを没収されそうになったこともあったそうだ。それでも彼らを乗せた車は、止まることを知らなかった。 いつの間にか、フィルムは膨大な量に増えていた。そのフィルムには、都会の隅っこに転がっている異様な熱気の多くが収められている。ネオン街、雑踏、米兵、夜の熱気、青い空、雲のような街灯。フィルムからもわかるように、タ

    interview with Akio Yamamoto | ele-king
  • R.I.P. Abdul Wadud | ele-king

    ジャズ・チェロ奏者、アブドゥル・ワドゥドが亡くなった。ネオ・ソウル系シンガー、ラヒーム・デヴォーンの父であり、メアリー・ハルヴォーソンやジェイミー・ブランチらとの共演でも知られる現役チェロ奏者トミカ・リードから深い敬愛を受ける才人である。 1947年4月30日オハイオ州クリーヴランド生まれ(アルバート・アイラーやトレイシー・チャップマンと同郷)、出生名は Ronald Earsall DeVaughn。12人兄弟の末っ子で、両親も含めて一家の誰もが音楽好きだったという。少年の頃にサックスをはじめ、やがてクリーヴランド管弦楽団の奏者にチェロを師事。オバーリン大学在学中に改宗し、3人組ユニット “ブラック・ユニティ・トリオ” で頭角を現した。72年にはセントルイスに赴き、BAG(ブラック・アーティスツ・グループ)の一員だったサックス奏者ジュリアス・ヘンフィルと親交を結んでいる。同時期に録音され

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  • SHAKKAZOMBIE | ele-king

    タイトルからもわかる通り、今年1月に亡くなった BIG-O ことオオスミタケシ氏へのトリビュートとして制作された、SHAKKAZOMBIE の〈cutting edge〉期の楽曲をリミックス/リメイクした6曲入りのEP。BIG-O および SHAKKAZOMBIE とも関わりの深いアーティスト、あるいは彼らに影響を受けた若い世代のプロデューサーやラッパーが参加し、時代的には90年代後半から2000年代前半に作られた楽曲を、いまのサウンドへとアップデートさせながら、同時に制作サイドの強い思いが滲み出る、非常に意義深い作品にもなっている。 日のヒップホップ・シーンの黎明期とも言える90年代半ばにデビューした SHAKKAZOMBIE であるが、同時代の様々なアーティストが日人としてのヒップホップの表現方法というものを模索する中、彼らもまた独自のオリジナリティを築き上げていき、その結晶とも言

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  • Richard H. Kirk | ele-king

    野田努(9/22) 日時間の昨晩、キャバレー・ヴォルテール(通称ザ・キャブス)の活動で知られるリチャード・H・カークが9月21日、65歳で亡くなったことを〈ミュート〉が発表した。昨年11月はキャバレー・ヴォルテールとしては26年ぶりのアルバム『Shadow of Fear』を発表し、エレキングの取材も快く答えてくれたカークだが、いまあらためてその記事を読み返してみると、すでに体調に問題があったのだろうか、取材中に何度か咳き込む様子が記されている。いずれにせよ悲しいことだ。各国の主要メディアが報じているように、偉大な音楽家/アーティストがまたひとりいなくなってしまった。 1973年のイギリスのシェフィールドという地方都市で、リチャード・H・カークを中心に、クリス・ワトソンにスティーヴン・マリンダーという3人の“ダダ中毒”によって結成されたキャバレー・ヴォルテールは、パンク以降の音楽シーンに

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  • チャーリー・ワッツから感じるロックンロールのリズムの成り立ち、鳥居真道が徹底考察 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

    ファンクやソウルのリズムを取り入れたビートに、等身大で耳に引っかかる歌詞を載せて歌う4人組ロックバンド、トリプルファイヤーの音楽ブレインであるギタリスト・鳥居真道による連載「モヤモヤリズム考 − パンツの中の蟻を探して」。第27回はローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツのドラムからロックンロールのリズムの成り立ちを考察する。 8月24日にローリング・ストーンズのチャーリー・ワッツが亡くなりました。深夜にInstagramを見ていたらクエストラブがチャーリー・ワッツのポートレートを載せていたので、これってまさか……と思ってすぐに検索したところ、やはり訃報が目に入ってきたので、大変ショックを受けたのでした。 関連記事:ホイットニー「カントリーロード」カバーに感じる匠のドラム、鳥居真道が徹底考察 学生の頃に所属していた音楽サークルの部室では、ビートルズ派とストーンズ派に分かれて議論がしばしば

    チャーリー・ワッツから感じるロックンロールのリズムの成り立ち、鳥居真道が徹底考察 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
  • Lee Perry | ele-king

    リー・ペリーの初来日は1992年6月、バックバンドは当時の〈ON-U〉が誇るダブ・シンジケート(スタイル・スコットにスキップ・マクドナルド、そしてルーベン・ベイリー)だった。忘れられないライヴのひとつだが、ぼくはその来日時に編集者として取材にも立ち会っている。インタヴューの最後にライターは「日のルード・ボーイ、ルード・ガールにメッセージをお願いします」という申し出をした。記事の締めとして「俺も昔はルード・ボーイだったんだよ」みたいな共感を喋って欲しかったのだろう。しかしペリーはじつにシンプルに、笑みを浮かべてこう答えた。「良い子になりなさい」 それから30年近く過ぎたいまでもぼくはこの答えが忘れられないでいる。 8月29日、リー・“スクラッチ”・ペリーはジャマイカの病院で息を引き取った。85歳だった。死因はまだ明らかにされていない。 1936年にジャマイカのケンダルで生まれ、1961年に

    Lee Perry | ele-king
  • ピーター・レーバーグの翻訳 ───PitaとEditions Mego (少しだけジギー・スターダスト)

    ピーター・レーバーグの訃報が飛び込んできた瞬間、この文章の当初の書き出しだった「もし地獄があるとすれば私たちは皆そこへ向かう…とはカーティス・メイフィールドが歌ったことだったが」と言う文章をDeleteして、改めてスタートするに至った。前置きしておくと、私がここに書くことはごく個人的なものでしかなく、所謂批評文とも全く違う。ピーター・レーバーグの歩みに関してはもっと詳細な文章や資料性の高いものがたくさんある。特に私は、ひとつの枠組みの中で音楽を偏執的に聴く能力に著しく欠けている…即ち専門性が皆無な人間なので、そういったものを望む人は以下全くもって読む必要がない。蛇足として加えると、私は1988年生まれなので、エレクトロニカ(※注)が勃興した時系列においてはやや後追い世代に当たる。それ故、リアルタイムに新しい電子音楽の到来を感じていたというよりは、電子音楽に興味を持った時それは「既にあった」

    ピーター・レーバーグの翻訳 ───PitaとEditions Mego (少しだけジギー・スターダスト)
  • Get out (of here)|0ckham

    2021年7月23日、PitaことPeter Rehbergが亡くなったことをINA GRMのTweetで知ることとなった。 活動初期から彼の作品をチェックし続けてきた一人として非常にショックでしばらくは何も手がつかなかった。 そして、直接の面識があるわけでもないアーティストの訃報に自分でも驚くほど動揺している数時間の間に世界各地から彼の死を悼むTweetが流れていくのをただ追いかけていた。 今まで自分は音楽について何か文章を書きたいと思ったことはほとんどないが、自分のとって大きな存在であったPeter Rehbergについて思うことを書くことで、自分の気持ちを整理すると共に彼への追悼としたい。 - なお、これから書くことは20年以上も前になることなので記憶違いなどがあるかもしれない。 もし事実誤認の箇所があれば、ご指摘いただければ幸いである。 - ディスコグラフィを調べれば、Genera

    Get out (of here)|0ckham
  • Paul Johnson | ele-king

    野田努 ケリー・ハンドに続いて悲しいニュースが届いた。8月4日、シカゴのハウスDJ/プロデューサーのポール・ジョンソンが新型コロナに感染し、集中治療室において死去した。1971年シカゴのサウスサイド生まれ、50歳だった。 ポール・ジョンソンは、シカゴ・ハウス第二世代を代表するひとりで、たとえば90年代前半はオランダの〈Djax-Up-Beats〉から、ディケイドの後半はUKの〈Peacefrog〉、そして2000年代も欧州の複数のレーベルから作品を出しているように、国際的な評価の高いプロデューサーだったが、彼の主戦場はゲットー・ハウスで知られる〈Dance Mania〉であり、〈Cajual〉であり、〈Dust Traxx〉だったりと、地元のシカゴのレーベルからまるで生活必需品であるかのように大量にリリースされた12インチ・シングルだった。 ぼくがもっとも思い入れのある作品はもちろん199

    Paul Johnson | ele-king
  • K-Hand | ele-king

    デトロイトのテクノ/ハウスのDJでありプロデューサーとして知られるK-ハンド(ケリー・ハンド)が逝去したことが8月3日に判明した。死因は現在不明だが、親しい友人によって確認されたという話だ。56歳だったというから、デトロイト・テクノのオリジネイターたちとほとんど同じ世代になる。黒人女性DJがまだ珍しかった時代からおよそ30年以上にわたって活動してきた彼女の死に、世界中から哀悼のコメントが寄せられている。 デトロイトで生まれ育った彼女は、80年代にはNYのパラダイス・ガラージ、シカゴのミュージック・ボックスといった伝説のクラブに通うことで最良のダンス・ミュージックを吸収した。地元デトロイトの電話会社で働きながらDJをはじめ、そして1990年には自分のレーベルを立ち上げて作品を発表するようになると、1993年にレーベル名を〈Acacia Records〉と改名し、K-ハンド名義としてのトラック

    K-Hand | ele-king
  • R.I.P. Peter Rehberg | ele-king

    7月23日、ピタことピーター・レーバーグが逝去。明け方に見たガーディアンの見出しには53歳とあった。心臓発作だったという。レーバーグはエレクトロニック・ミュージックをダンスフロアから引き剥がし、エレクトロニカを先導したラップ・トップ・ミュージシャンの先駆者である。フェネスとともに現代音楽やミュジーク・コンクレートをリヴァイヴァルさせた中心人物といっていい。ウィーンを拠点にラモン・バウアーらと共同で運営していた〈メゴ〉からは自らの作品だけでなく、フェネスやヘッカーなど実験的なエレクトロニック・ミュージック(=ジム・オルークいわく「パンク・コンピュータ・ミュージック」)を矢継ぎ早にリリースすることでエレクトロニカというタームを引き寄せ、1999年には彼自身のソロ作『Get Out』と、フェネス及びジム・オルークと組んだ『The Magic Sound Of Fenn O'Berg』によってテク

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  • 追悼:Peter Rehberg|よろすず

    主にPitaの名義で音楽活動を行い、95年にRamon Bauer、Peter Meininger、Andreas Pieperが立ち上げたMegoの運営に少し遅れて加わり、それに続くEditions Megoの主宰としても広く知られるPeter Rehbergが亡くなりました。享年53才、The Gardianの記事によると死因は心臓発作とのことです。 私にとっては一人の大好きな音楽家というだけでなく、リスナーとしての最も強力な指針であり、作り手としてはいつか彼の元に自分の作った音を送ってみたいと、明確に意識する人物でありました。 あまりにも突然の訃報に何も手につかず、自分なりにしっかりとした哀悼の意を表さないことには最早他に何もできなさそうなので、なんとかして自分の足取りを確かめ、歩いていくためにこれを書いています。 PitaもしくはMegoの関連作と私が出会ったのは多分ですが2009

    追悼:Peter Rehberg|よろすず