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ブックマーク / call-of-history.com (54)

  • 英国シャフツベリー修道院遺跡で石像の頭部が発見。エドワード2世王か? | Call of History ー歴史の呼び声ー

    イングランド南部ドーセット州にあるシャフツベリー修道院(Shaftesbury Abbey)跡を調査していた考古学者のチームが十四世紀頃の石像の頭部を発見した。イングランド王エドワード2世(在位1307-1327年)のものではないかと見られている。 シャフツベリー修道院は888年、アルフレッド大王の名で知られるウェセックス王アルフレッドによって女性のための修道院として創建され、王女の一人エゼルイヴが初代修道院長となった。以後、ウェストミンスター寺院と並ぶイングランド屈指のキリスト教施設として繁栄したが、1539年、宗教改革を進めるイングランド王ヘンリ8世の命で解散・破壊された。 考古学者ジュリアン・リチャーズ氏が率いる発掘チームは2019年夏からシャフツベリー修道院跡の発掘調査を行い、同修道院の構造を明らかにした他、中世の床タイルやコイン、修道女のロザリオの一部だったとみられる黒色ビーズな

    英国シャフツベリー修道院遺跡で石像の頭部が発見。エドワード2世王か? | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 九世紀頃のアングロ・サクソン少女の頭蓋骨、皮剥ぎ・鼻削ぎ刑が加えられていたことが判明 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020 イングランド南部で1960年代に発見された八~九世紀頃のアングロ・サクソン系の人骨を調査していた考古学者たちが、アングロ・サクソン時代の法典類に記載されている皮剥ぎ・鼻削ぎ刑の古い例となる痕跡を発見した。CNNが報じている他、詳しくは、調査にあたったユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London, UCL)考古学研究所(Institute of Archaeology)のギャラード・コール(Garrard Cole)氏らがジャーナル” Antiquity”で調査結果についてサマリーを公開している。 Garrard Cole, Peter W. Ditchfield, Katharina Du

    九世紀頃のアングロ・サクソン少女の頭蓋骨、皮剥ぎ・鼻削ぎ刑が加えられていたことが判明 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ジャンヌ・ダルクは世界史上屈指の有名人だ。現在、我々が知るジャンヌ・ダルクの事績は同時代の書簡や文書、関係者の日記、歴史家の記録類とジャンヌ・ダルクの異端審問記録の彼女の証言などを除くと、大半は1455~56年に行われたジャンヌ・ダルクの異端判決取り消しを目的とした復権裁判での関係者の証言に基づいている。我々が良く知るジャンヌ・ダルク像はジャンヌ・ダルクと同時代を生きた人々の、いわば「思い出」として語られた姿である。 作「ジャンヌ」はジャンヌ・ダルクの死から9年が経った1440年初頭に物語が始まる。かつてジャンヌ・ダルクを送り出したロレーヌ地方ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールに男子エミールとして育てられた17歳の少女エミリーが、当時勃発していた諸侯反乱「プラグリーの乱」で国王シャルル7世派として参戦を決意する。エミールは幼い日、ジャンヌ・ダルクと出会った思い出を胸にシャルル

    『ジャンヌ』(安彦良和 作)感想 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 黒死病(ペスト)流行下(1348~53年)におけるユダヤ人迫害のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー

    「黒死病(英語Black Death”)」と呼ばれる1347年から1353年にかけての世界的なペスト流行の渦中、ヨーロッパでは各地で暴力や虐殺を含むユダヤ教徒(ユダヤ人)への激しい迫害が展開した。 中世ヨーロッパにおけるユダヤ人二世紀のローマ帝国下での迫害(注1)以来、ユダヤ教徒(ユダヤ人)はパレスティナ地方から世界中に離散した(ディアスポラ)。キリスト教国教化以来迫害は苛烈なものとなり、六世紀に東ローマ帝国(注2)や西ゴート王国(注3)等で大規模な迫害があったが、世界各地に住み着いたユダヤ人たちは宗教的慣習を維持して自治共同体を築き、国際的なネットワークを生かして交易で富を得て存在感を発揮するようになり、特にイスラーム世界で重用され、キリスト教世界でも王権との関係が安定化して寛容な時代を迎える。 ユダヤ人たちはローマ帝国の迫害を逃れてドイツからイベリア半島にかけてのローマ帝国周縁に逃れ

    黒死病(ペスト)流行下(1348~53年)におけるユダヤ人迫害のまとめ | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • イラク北部でダムの水が引き約3400年前のミタンニ帝国の宮殿遺跡が発見

    2019年6月27日発表のテュービンゲン大学プレスリリースによると、2018年秋、イラク北東部クルディスタン地域にある、ティグリス川東岸のモスル・ダム(1980年建設)の貯水池の水が引いたところ、青銅器時代の宮殿が発見された。考古学的に非常に重要な発見として海外でもCNN、BBC他各ニュースで報じられている。 動画:テュービンゲン大学/ Eサイエンスセンター制作 クルド人実業家の資金援助を受けてドイツ・テュービンゲン大学とクルディスタン考古学機構(Kurdistan Archaeology Organization (KAO))の合同チームが調査を行い、同宮殿(ケムネ宮殿”Kemune Palace”)が紀元前15世紀から14世紀にかけてメソポタミア北部とシリアの大部分を支配していたミタンニ(ミッタニ)帝国の時代にさかのぼることができることが判明した。 クルド人考古学者ハサン・アフメド・カ

    イラク北部でダムの水が引き約3400年前のミタンニ帝国の宮殿遺跡が発見
  • フィボナッチの登場と複式簿記の誕生が育む十六世紀数学革命

    レオナルド・フィボナッチ『インドの九つの数字は9、8、7、6、5、4、3、2、1である。これら九つの数字とアラビアではzephiriumと呼ばれる記号0でもって、以下に示すように、任意の数字を表すことができる。』 (山義隆著「一六世紀文化革命 1」P318よりレオナルド・フィボナッチ著「”Liber abaci”算数の書」(1202年:未邦訳)冒頭の山による邦訳を孫引き) この一節で始まる1202年の数学書「”Liber abaci”算数の書」の発行が世界史上の画期であることは誰しもが認めるところだろう。商人で数学者のフィボナッチことピサのレオナルドは、書でアラビア数字のイタリアへの導入、同時にそれらを用いたイスラム社会の十進法での整数と分数の計算方法を解説、最初の回帰数列であるフィボナッチ数列の考案、歴史的には修辞代数に分類される代数学の提唱などをまとめ、当時の商業数学の集大成であ

    フィボナッチの登場と複式簿記の誕生が育む十六世紀数学革命
  • 中世ヨーロッパの異教的な信仰・風習・迷信のまとめ

    中世ヨーロッパでは七世紀末頃からカロリング朝フランク王国の支援を背景としてゲルマン人へのキリスト教布教が進んだが、改宗してもキリスト教化は徹底されず、多神教や自然崇拝による異教的伝統文化も色濃く残ることとなった。 その異教的な伝統がどのようなものであったかは、教会側の史料に概ね禁令として多く残されている。1020年頃ヴォルムスの司教ブルカルドゥスによって書かれた『教令集』の中の贖罪規定にある異教的慣習、迷信、魔術に関する記述を野口洋二著『中世ヨーロッパの異教・迷信・魔術』(早稲田大学出版部,2016年)を参照して簡単にまとめ。なお、一般的な魔女に関わる例はここでは割愛した。 異教的な信仰・習慣・天、地、太陽、月にかけて誓う ・諸元素、太陽、月、新月や月、星の動きを崇拝 ・泉、石、樹木や十字路に行き、ロウソクや松明を燃やしてパンやその他供物を捧げて、そこでべたり、身体や心の治癒を祈る ・

    中世ヨーロッパの異教的な信仰・風習・迷信のまとめ
  • 『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版 (ちくま文庫)』青木直己 著

    日記の主である紀州和歌山藩士酒井伴四郎は万延元年(1860)当時28歳、25石の下級武士で、上司にあたる叔父・宇治田平三、同僚の大石直助らとともに、装束に関する着用の指導にあたる衣紋方として同年から一年七カ月の江戸勤務についた。日記は万延元年(1860)五月十一日から十一月三十日までの約七カ月である。 直前に大老井伊直弼は暗殺されるわ、紀州藩内も政争で重臣が失脚するわ、アメリカ公使ハリスらをはじめ外国人が来日しはじめるわ、攘夷の嵐が吹き荒れるわで、幕末の江戸は大わらわ・・・なはずだが、下級武士の彼にはそんな激動は特に関係なく、毎日の生活とか、倹約生活とか、江戸観光でどこ行ったとかの話で占められているのが、実に等身大という感じで面白い。 書で紹介されるのも大半が彼らが何ったかである。紀州から江戸への道中だけでもあんころだうなぎだわらびだ柏だ葛だ栗だ力だとばっかりだけど道中

    『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版 (ちくま文庫)』青木直己 著
  • 何故、中世の司法制度は「自白」に頼っていたのか?

    『教会は、証拠物件よりも自白のほうを好み、このほうが上だと考えた。被告がもし頑強に否認しつづけるなら、審問官たちはさまざまな強制手段を用いることができた。未決拘留などもそのひとつである。制裁にはいくつかの段階があり、裁判官は適当と思われる様式を選ぶことができた。被告は鎖につながれることもあった。長期の断を課されることもあり、睡眠を奪われることもある。このような懲治の措置はときに数年間もつづき、いくつかの監獄は――たとえばカルカソンヌの独房のごとき――その厳しさゆえに悪名高いものがあった。ベルナール・ギーはこの種の懲戒法を称賛し、分量を間違えず上手に用いるなら、「心を開かせる」ものだ、「苦痛は理解のもと」だといっている。』(ギー・テスタス、ジャン・テスタス「異端審問」(1966年著、邦訳1974年)P45) ベルナール・ギー(1261~1331)は中世を代表するフランス出身の異端審問官で異

    何故、中世の司法制度は「自白」に頼っていたのか?
  • 若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本

    神奈川県の歴史について色々調べている過程で、図書館で幕末に日を訪れた女性宣教師の手紙をまとめたを見掛け、読んでみたら結構面白かったので軽く紹介してみる。まぁ、20年以上前ので絶版のようだし、amazon見てもランキング115万位でレビューも無し、google検索結果も約 1,950 件(うち関係するのは三ページ目までで、しかもほぼ全てネット書店)、著者マーガレット・T・K・バラについての日wikipediaページも無し、と殆ど注目されていないものなので興味がある方は図書館なり古書店なりで探してみてください。まぁ版元の有隣堂も神奈川ローカルの出版社なので、他の地域で手に入るかは不明ですが。(注1) 著者のマーガレット・テイト・キンニア・バラ(1840-1909)が夫で同じくプロテスタント宣教師のジェイムズ・ハミルトン・バラとともにアメリカから船旅で日を訪れたのは1861年11月、

    若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本
  • 「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    中世・近世を中心に日において人身売買がいかにして無くならず生き残り続けたか、を通史として浮き彫りにした文字通り「身売り」の日史の概説。 古代から中世にかけて、人はものとして売り買いの対象だった。鎌倉・室町時代を通して時の政権も例えば無理やり誘拐や騙して売り飛ばしたりといったものは不正とされたが人身売買そのものは禁止されなかったし、戦国時代は文字通り「人取り」という奴隷売買が国内のみならず海外向けにも行われていた。江戸幕府になっても禁止されたのは人商い業と人をかどわかして売る行為であって人身売買そのものは禁止されなかった。ただ、譜代下人から年季奉公へと雇用形態が変化したことによって人身売買の対象は大きく縮小したが、男性の人身売買はほぼ無くなったものの、いわゆる遊女・売女など苦界に沈めるという行為を通しての女性の人身売買は残り続けることになった。 何故江戸時代に女性の身売りは無くならなか

    「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著 | Call of History ー歴史の呼び声ー
  • 【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ

    2016年五月の初頭ごろだったか、Twitterで士農工商という表記が教科書から無くなっているという話が話題になっていた。そう。もう江戸時代の身分制を「士農工商」として表記することは退けられて久しいのだ。少なくとも一九七〇年代初頭に疑問が呈され、九〇年代にほぼ否定され、その結果として二〇〇〇年代半ば以降、教科書から消えはじめた。 かねてから近世身分制社会について個人的にまとめたいと思っていたので、いい機会と思い改めて研究書籍や論文を読み直したり、新規に関連文献を読んだりして一気にブログ記事としてまとめてみようと思いたったのが運の尽き。なんだかんだで書き終えるまで三か月ほどかかってしまい、かつ三万三千文字オーバーの超長文記事となってしまった。誰が読むんだ。 というわけで、長文を読みたくない人のための簡単なまとめ ・士農工商は職能分担を表す言葉で、社会通念として身分体系を意味するようになるのは

    【江戸時代の身分制度論】士農工商から身分的周縁へ
  • ジプシー/ロマ/ロマニ呼称問題の簡単な整理

    歴史的にジプシーと呼ばれてきた人々の呼称を巡っては様々な議論がある。 承前:「「ジプシー 歴史・社会・文化」水谷 驍 著」で簡単な歴史的背景はまとめてあるので前提として参照いただけると。 1)「ジプシー」系「ジプシー」は十五世紀にヨーロッパに彼らが登場して以降「エジプト人(エジプシャン)」と呼ばれるようになり、それが変化したものである。「ジプシー系」の呼称としては、ジプシー(イギリス)、ジタン(フランス)、ヒターノ(スペイン)、エギフト(ギリシア)、イェフギット(アルバニア)などがある。何故エジプト人と呼ばれるようになったのか、自身がエジプトから来たと名乗ったとも、「エジプト人」が東方・南方の異国の人全般を指していたからとも、放浪の人全般をエジプト人と呼んでいたからとも言われるが、はっきりしない。 「ジプシー」という語そのものに差別的ニュアンスが全くない無いとは言いきれないものの、一方で差

    ジプシー/ロマ/ロマニ呼称問題の簡単な整理
  • 「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ

    1609年三月、島津軍が琉球王国に侵攻し奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして沖縄島と次々攻略。琉球王国軍の抵抗むなしく、四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家琉球王国は、引き続き中国からの冊封体制下にありつつ、徳川幕藩体制の中に組み込まれる両属体制時代に入ることとなった。「薩摩島津氏の琉球侵攻あるいは琉球出兵」として知られるこの事件について、簡単にまとめ。 主に上里隆史著「琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻」に従いつつ、記事末に挙げた琉球史関連の書籍・論文を参照。年号表記は和暦、中国暦、西暦を併記すべきところだが、冗長になるので一律西暦表記している。(参考、日:慶長十四年=明・琉球:万暦三十七年=西暦1609年) 徳川政権の事情秀吉死後、実権を握った徳川家康にとって最大の懸案が秀吉による朝鮮出兵の戦後処理だった。1599年の倭寇禁止令で東シナ海の治安回復に取り組む姿勢をアピー

    「薩摩島津氏の琉球侵攻」(1609年)まとめ
  • 「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著

    ビスマルクというと最近はすっかり第二次大戦中のドイツ海軍の戦艦、しかも美女ということになっているが、元々は鉄血宰相として知られた十九世紀プロイセンの政治家、ドイツ帝国建国の立役者で、芸術的な外交手腕で欧州にビスマルク体制として知られる勢力均衡を生み出したオットー・フォン・ビスマルク(1815~98)のことだ。彼の存在感は絶大で、日の明治維新の元勲たちもこぞって彼に憧れ、彼を範として近代国家建設に邁進した。 ビスマルクは確かにすごかった。十九世紀欧州政治に冠絶した存在であった。しかし、その手腕や影響力は実際どんなものだったのだろうか。ビスマルクの評価についてはその死後から、国民的英雄として神話化するものから後のヒトラーに繋がるナチズム的支配体制を築いたと断罪するものまで紆余曲折、激しい論争を経て、実証的なビスマルク像が形成されてきたのだそうだ。書は、近年の研究成果を踏まえて、等身大の政治

    「ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術」飯田 洋介 著
  • 「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー

    ヨーロッパの中世を「暗黒時代」、すなわち「暴力と狂信と無知と停滞の時代」とする見方はすでに否定されている。確かに絶え間なく続く戦争と、キリスト教的世界観の浸透と、ローマ教会の支配が築かれ、ギリシア・ローマ時代の知識が少なからず一時的ながら失われた時代ではあったけれども、後に近代を切り開く土台となる様々な技術のささやかながら着実な革新が繰り返された、ゆっくりと着実な進歩の時代であった。その中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションはどのようなものであったのか、緩やかな技術革命の千年を振り返る一冊である。 別に中世ヨーロッパが栄光の時代であったとか、産業革命に比肩する技術進歩の時代だったなどと言う訳ではなく、ただただ、後進地であったヨーロッパで中世の千年間で起きていた地道な技術的革新の歩みを描いているに過ぎないが、そこにドラマがあり、面白さがある。ジャレッド・ダイアモンドとかウィリアム・H・

    「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」 | Call of History ー歴史の呼び声ー
    yukatti
    yukatti 2015/09/27
    “本書が描くのは、ローマ帝国時代の技術は概ね失われずその後も継承されたということだ”/本、面白そう
  • 「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著

    太平洋戦争へ至る過程で軍部の台頭を許した大日帝国の制度的欠陥の一つが「臨時軍事費特別会計」である。 臨時軍事費特別会計は大日帝国下で戦時に戦費支出目的で定められる特別会計制度で日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、日中戦争(支那事変)・太平洋戦争の四度設けられた。それぞれの支出額は日清戦争:約二億円、日露戦争:約十五億円、第一次・シベリア:約八億八千万円、日中・太平洋戦争:約一五五三億九千万円。 その特徴は 「一般会計とは異なり、いずれも戦争の勃発から終結までを一会計年度とし不足分は追加予算で補われる」(P90)こと「戦争の終結までが一会計年度であるので、その間に陸海軍省は議会にたいして決算報告の義務がない」(P96)ことである。 臨時軍事費特別会計法(昭和十二年法律八十四号) 第一条 支那事変ニ関スル臨時軍事費ノ会計ハ一般ノ歳入歳出ト区分シ事件ノ終局迄ヲ一会計年度トシテ特

    「臨時軍事費特別会計 帝国日本を破滅させた魔性の制度」鈴木 晟 著
  • 「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著

    江戸幕府は幕府にとって都合の悪いを発禁として絶版にし、売買を禁止した。幕府による出版統制と検閲のシステムはいかにして確立され、発禁とされた出版物にはどのようなものがあり、幕府の規制の中で近世の出版はどのような影響を受け、いかに発展したか、欲望と抑圧のせめぎあいを生々しくも鮮やかに描いた面白いである。 幕府の出版統制令は軍記物の規制から始まった。江戸幕府が成立すると戦国時代を舞台にした様々な軍記物が出版されたが、現存する大名家の当主たちさらには徳川家を悪く書いたものも少なくなく、これらの規制が始められた。最も古い出版統制令は明暦三年(1657)三月、京都で出された触書で軍記物出版時の出版元報告を義務付けたものだったという。 八代将軍徳川吉宗の享保の改革で全国的な出版統制システムが確立する。風説・異説、好色、武家の祖先に関わるもの、徳川家に関わるものなどの出版が禁じられ、屋仲間が結

    「江戸の発禁本 欲望と抑圧の近世」井上 泰至 著
  • 「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著

    太平洋戦争における日は通信を傍受され、暗号を解読され、偽情報に撹乱され、連合軍の兵力を見誤り、情報分析を疎かにして慢心と理想論とで作戦を立てて失敗を繰り返し・・・と情報戦で完敗したが、書は戦前日の情報活動はどのようなものだったのか、どこに問題があったのかを概観した一冊である。 基的な用語がおさえてあるのでインテリジェンス入門書として有用だ。生情報やデータが「インフォメーション」、「インフォメーション」を分析・加工した情報が「インテリジェンス」で、「インテリジェンスの質は、無数のデータから有益な情報を抽出、加工することによって政策決定サイドに『政策を企画・立案及び遂行するための知識』を提供することにある」(P7)。国益・国家戦略に基づく情報要求「リクワイアメント」が政策・作戦サイドから情報収集・分析(インテリジェンス)サイドに出され、これに対してインテリジェンスサイドは多様な情報を

    「日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか」小谷 賢 著
  • 「幕末外交と開国」加藤 祐三 著

    黒船来航から日米和親条約に至るプロセスを「(1)無能な幕府が(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、(3)極端な不平等条約を結んだ」(P257)と理解する見方が強まったのは明治十年以降だという。明治政府は一連の条約改正を政治課題に掲げて前政権である幕府の無能無策を強く主張するキャンペーンを張り、これが通説として長く信じられるようになった。しかし、史料を丹念に追うと、このような幕府無能説、軍事的圧力説、日米和親条約の不平等条約説はどうにも当てはまらない。では黒船来航はどのような過程をたどったのかをコンパクトかつ丁寧に解説したのが書である。 まず、黒船来航は幕府にとって青天の霹靂、であったとはとても言えない。前々から幕府は周到な準備を行っていた。まず、前提としてアヘン戦争を契機に海軍をもたないことから諸外国より劣勢にあるという認識の下で、外国船に対し強硬に武力で追い払うとしていた文政令(18

    「幕末外交と開国」加藤 祐三 著