今日の研究会はM1の研究会発表。@tomo_wbくんと@otoritoriくんと@jhirwinくんの3人。 どれもおもしろい内容。自己紹介はあると分かりやすいし、今日のみんなは効果的に使っていたのでとてもよかったと思うが、自己紹介は1枚か2枚くらいにとどめて、あとは研究につながる話ができるといいかな。 宮崎駿が iPad について語った内容が取り上げられているが、言われてみるとそれもそうかも。 あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。 (中略) 一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れた
シン&エルンスト『代替医療のトリック』(新潮社、2010) サイエンスライターと、代替医療に関わってきた学者との共著。 主張は明確で、鍼・ホメオパシー・カイロプラティックなどの代替医療には「期待されている効果」が認められない、というもの。本書の最大の美質は、代替医療を「メカニズムが科学的に理解できないから」否定するのではなく、「実際の効果に関する臨床試験に基づく」分析から、それらがプラセボ以上のものではないことを導き出している点である。(日本ではほとんど一般には話題にならないが、外国では代替医療への科学的研究の成果がかなり積み上げられつつあるようだ) 著者は「科学的には理解されていなかったが効果が臨床試験に耐えたもの」として「壊血病に対するレモンの摂取」を、「広く受け入れられていたにもかかわらず統計的には効果があるとは見なされ得ず否定されたもの」として「瀉血」をあげて対比する。 科学的知識
未分類最近あまりに本が増えすぎているのでやれやれそろそろ整理するかいとダンボールを漁っていたら、古い大学ノートを見つけた。大学の講義のノートは処分したはずなので、なんだこりゃと思って見てみると、症状がもっと酷かった頃の日記のようだった。年号が書かれていなかったが、内容からは2002年の3月下旬から始まっていた。師匠のところにたどりつく少し前だ。当時は「忘れる」という症状が酷く、日付が飛ぶことが当たり前にあったので、今よりずいぶんメモ魔だったらしいが (今はそこまでのことはないので重要な内容を時々メモするのみ)、よくもまあこんなものが残っていたなと呆れた。ノートは 4冊あったが最後までちゃんと埋まっていたり逆に途中で終わっていたり、途中から落書き帳化していたり、なんやかやで 1年くらいで終わっていて続きがない。多分飽きたんだろう (ぇ当時の出来事や考えたことをそのまま書き留めたノートというも
ツイッターを眺めていてつくづく感じるのは、情報もまた人間と同じように砂粒化が激しく進んでいるのだということ。同時に、インターネットに仮に意識みたいなものが生じても、それは1人のブログや1個のつぶやきの次元ではないということ。 ●流浪するつぶやきの民 ツイッターのつぶやきのすべては、たとえば「はてな」などといった古き良き領域だけに留まることはもはやかなわず、インターネット全体をコントロールするグローバルな情報の力学だけによって、まるで砂粒のように流動化し漂い続ける。 これはなんだか国家の形成と崩壊を思わせる。 国家と国民は人間の長い歴史に生じた一過性の奇跡だった。それと同様、はてな国やはてな国民の形成もまた、ネットの歴史においては幻のごとくであり、もはやそのタガは緩み崩壊は止められない。 そうしてどうなるのか。私たち国民はみなグローバルな経済や政治の力学だけで流動する砂粒になる。日本もアメリ
広告関係者の人は当然ご存知だろうが広告コピーには「キャッチコピー」と「ボディコピー」がある。 このボディコピーと言うのが、コピーライターにとってはなかなかの重労働だった。「だった」と過去形で書いたのには理由があって、最近は広告会社のコピーライターが長々とコピーを書くことが著しく減っているからだ。 一つには新聞や雑誌で「文字ギッシリ」のコピーが減少してきたと言うことがある。 もう一つは、カタログなどの制作が外部のプロダクションに任されるようになったので、広告会社の若手がそうした制作作業に携わることが減ってきたと言うこともある。 それは今に始まったことではなく、僕が会社に入ってまもなくバブルの頃に起きたように思う。ところが、その頃に僕は転勤したこともあって、結果的に長いボディコピーを書く文章が多かった。 ボディコピーはいかんせん地味な仕事である。ポスターに一行、で仕事が完結すればあり
一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ を読んで。 一番引っかかったのが以下の部分。 「一方的な非難を受けた」のであれば、それはおおよそ「一方的にそのエントリが誤っている」のだと思う。 一方的な非難を陰謀説で考えるのは筋が悪い – プログラマーの脳みそ この考え方はとても怖いものだと感じる。 最初に読んでくれる方に断っておくが、引用元エントリーがどのようなパターンを想定して、引用した部分を述べたかは定かではないので、引用元エントリーへの直接的な批判ではない。あくまで、引用部分を一般化して考えることの危険性を感じる、という話である。(現にそういう人はよくいるので) まず、「正しさ」「誤り」「客観的」の定義自体をどのように置くかにもよるが、「大多数であること」が「正当性」を担保する、というのは客観的事実として真偽を判断する為の十分条件ではない。 有名な話で言えばガリ
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 本を読めない人がいます。他人の話の字面だけをおって相手が何故その話をしているかを感じとることができない人がいます。また、間違いをおかさないよう怯えることにせいいっぱいでチャレンジできない人がいます。 そうした人に共通するのは未知への感受性の希薄さです。わからないものを避け、未知なるものを嫌悪する。自分が安心してみられる世界に閉じこもり、新しい世界に目を向けようとはしない。外部に対してはもちろん、自分自身の内にある未知や答えのはっきりしないものからも目をそらしたがる傾向がある。 そういう人もいろいろ教えてもらいたがったりするのだけど、残念ながら、そういう人に教えるのはむずかしい。何故なら教えてもらいたがってる割には未知なるものを嫌うから。教える側は相手がすでに知ってることしか
考えてることを口にするのと、文章にするのとじゃ全然ちがって、でも同じなのは足りないってところだと思う。 口にする言葉の足りなさは手で水をすくうようなもので、ぴったりに捕まえたくてもなかなかうまくいかない。ただ、殆ど残らないけどたぶん、その場に補うものがいろいろあったりもする。 逆に文章の場合、というか私にとって身近な文章といえばこの日記で、それは喋る方に少し近い気もするけれど、 ともかく文章を書くのは、言いたいことの半分くらいを、捨ててく作業のような気がする。たまに、捨てる部分を間違ってるような気もする。ちょうどいい言葉がみつかんなくて困る、なんてときに思う「ちょうどいい」ってのは、結局あたりさわりがないってことで、つまんない。というか腹が立つ。 要するに、言いたい事が単純すぎて捨てるものがない。
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