「ない」ものをあたかも「ある」かのように 記号が実体を持ったモノのように振る舞うという点に関して私が思い出しますのは、南直哉さんの「十二支縁起の『無明』とは言語のことではないか」という発言です。十二支縁起とは「苦」が生じる過程を「無明‐行‐識‐名色‐六処‐触‐受‐愛‐取‐有‐生‐老死」の12の項目の関係のあり方に求めるものであり、この考え方が「縁起」であると南氏は説明された後、十二支縁起の根本である無明とは言語のことではないか、と仰います。 私は、人間の実存を考える論理モデルとして、十二支縁起を考えている。十二支縁起の最初は「無明」。私は「無明」とは、龍樹が『中論』で述べている「ことばの虚構」(戯論)、すなわち「言語に拘束されていること」だと思う。その根本は「言語機能」であって、「ことばで言い切ってしまえる世界を信じたらまちがうぞ」ということではないか。 ……私は、仏教でいう「苦」は認識の