平成9年度で閉校した旧伊方町立町見中学校の校舎を利用して、平成11年(1999年)6月に開館し、現在は、町全体をカバーする「地域博物館」となっている”町見郷土館”で学芸員として働いておられる高嶋賢二さん。 「博物館学芸員という職業に就いたルーツは何ですか?」と質問すると、 高校時代に興味があった「民話や神話(民俗学)」や大学時代に専攻していた「美術」を探求できる職業だったからと話す高嶋さん。 また、大学院時代に香川県の博物館でアルバイトをされていて、その経験も「博物館学芸員」になる礎になっているという。 そして、平成14年(2002年)に、縁があって、伊方町の”博物館学芸員”として採用され、現在に至るとのこと。 普段の業務は、町内の歴史・文化・自然・産業といった色々な分野で地域の特性を調査研究し、地域のこれまでの歩みを残すために資料の収集や保管。それに関連した企画展や講演会・見学会も実施さ
出水地域120年の経過の中で,忘れられないことのひとつに,大戦中の爆弾投下の被爆があります。非戦災都市京都,また,他の戦災都市からみれば微小な被害として,東山馬町の場合と同じように忘れられかけています。 二条城北小学校では,統合前の出水小学校の時から,6年生の社会科,戦争の学習の時間に,地域の住民に戦争体験の話をする機会を作って頂いています。 平成10年秋の授業で,爆撃の体験を語ったのは磯崎幸典さん。その「語り部」としての思いを,次の一文にしたためて頂きました。 「非戦災都市として,知られている京都市が爆弾の洗礼を受けていることを,どれだけの人が知っているのだろう。もう,人口の3分の2が,戦争を知らない世代になっている。 昭和20年6月26日,昼前。日本本土を空襲に来たアメリカ空軍B29のうちの一機から数発の爆弾が,私たちの住む出水,正親,待賢,の3学区の境界に落下して,多数の犠牲者がでた
待賢学区は,東は堀川通,西は日暮通,北は下長者町通,南は竹屋町通に囲まれた地域。ここは延暦13年(794)に平安京ができた頃,大内裏の東側に位置し,その門の一つ待賢門が現在の椹木町通大宮あたりにあったところから,「待賢」と称されるようになりました。当時は,検非違使庁などがある官庁の町でしたが,平安時代から鎌倉時代に移る頃,平治元年(1159)の平治の乱で戦場となったり,安貞元年(1227)の火災で少しずつ衰退していきました。室町時代の初め,明徳2年(1391)には明徳の乱が起こり,あたりは戦場となったりしました。 豊臣秀吉が天下を統一すると,天正14年(1586)に待賢学区の北側の地に聚楽第を建て,その周囲には武将の家々が次々と建ち並ぶようになりました。やがて秀吉に代わり,徳川家康が天下をとり江戸幕府を開くと,慶長6年(1601)待賢小学校あたりに京都所司代を作り,慶長8年には上洛時の将軍
「悪役」として語り継がれる戦国武将、松永久秀の逸話は後世の作り話だったとする「松永久秀―歪(ゆが)められた戦国の“梟雄(きょうゆう)”の実像―」が歴史ファンの注目を集めている。日本中世史の研究者、天理大准教授の天野忠幸さん(41)が編者となり、出版された。 松永久秀は多聞山城(奈良市)や信貴山城(平群町)を拠点に活躍した武将だ。天野さんは永正5(1508)年生まれ、天正5(1577)年没としており、下克上の風潮を代表する人物とされ、将軍の殺害や東大寺大仏殿を焼いたことなどの逸話で知られる。 同書は、将軍を討ったのは息子の久通などで、久秀ではなかったと指摘。東大寺大仏殿の炎上は、三好三人衆が境内に陣取って戦場になったのが原因で、後に久秀が大仏の再興に尽力した点を同時代の古文書で裏付けられるとしている。織田信長に攻められ、信貴山城で茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」を抱いて死んだという逸話も、「第2次
なお17:30-19:30には、別会場にて情報交換会を開催します。参加費は5000円(学生1000円)です。申込は締め切りました。当日参加は受け付けておりませんので、ご了承下さい。 発表概要 当日の発表資料は、各タイトルの下のリンク先にアーカイブしていますが、DOIがうまくレゾルブできない場合には人文学研究データリポジトリ 第4回CODHセミナーをご覧下さい。 発表資料:http://id.nii.ac.jp/1485/00000316/ IIIFは、デジタル画像を簡便に発信して、ウェブスケールで相互利用可能にする運動として、すでに100以上の組織が参加している。その意義と最新動向について紹介する。 IIIF Frequently Asked Questions (FAQs) - What are the benefits of IIIF? 発表資料:doi:10.20676/000003
(対象期間:明治元年(1868年)~35年(1902年)/編纂時期:明治33年(1900年)~36年(1903年)) 明治維新後における政治経済の激動の中で複雑な変遷過程を辿り、また、後世の政治経済や学問研究において大いに参考とされるべき明治初期の財政について、記録の欠如や散逸、当時を知る関係者の減少といった状況を憂慮した松方正義大蔵大臣の意を受けるなどして、明治33年(1900年)に「明治財政史編纂会」が組織されました。『明治財政史』は、同じ時期に修史事業の実施を検討していた大蔵省がこの会の趣旨に賛同し、既に蒐集、所蔵していた公文書などの資料を提供するなどして協力する形で同年から明治36年(1903年)にかけて編纂されました。『明治財政史』は、対象期間(明治元年(1868年)~35年(1902年))中、最も長く大蔵大臣を務めた松方正義の功績を顕彰する意図もあったことから、「松方伯財政事歴
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