椿タツ子さんがタクマの死を知ったのは、処刑から1ヶ月くらい経ってからでした。 「とてもショックを受けて、悲しみに沈む日々を過ごしました。その頃、中国人のお金持ちから求婚されていましたが、そのショックから立ち直れず、今の夫と結婚するまで6年かかりました。昔の悲しい思い出を忘れようと努力してきました」と言います。 また、戦後、「日本人だという理由で、ツバを吐きかけられたこともありました。母の姓に変えて、日本人との関係を隠しました。でも、セント・テレサ・カレッジに入学しようとしたら拒否されました」。その学校は当時、アメリカ人の修道女が経営していたからです。 タクマの妹のハツ子さんにも会いました。彼の遺品があったら見せてほしいと申し出たら、「戦後すぐに、アメリカ軍の通訳が来て、文書など持って言ったし、残りは母が焼いてしまった」そうです。彼女も母の姓を名乗っていたけれど、タクマの妹だと知られて周りの