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2019年4月21日のブックマーク (2件)

  • 家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生(伊藤 孝司) @gendai_biz

    2014年5月の「日朝ストックホルム合意」にもとづき、北朝鮮は「特別調査委員会」を設置。その調査により、9人の残留日人が健在であることが判明したという。ところが5年後の現在では、咸鏡南道(ハムギョンナムド)、咸興(ハムフン)市で暮らす荒井琉璃子(るりこ)さん(86)しかいないと公表されている。 私は4回にわたって琉璃子さんの自宅を訪ね、その数奇な人生について詳しく聞いた。 琉璃子さんの父親は、熊から京城(現在のソウル)へ移り住んで鉄道員をしていた。1944年5月頃に転勤となり、中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンプクド)会寧(フェリョン)へ一家6人で移る。だがすぐに、父親は現地召集されて中国へ。 ソ連軍による攻撃が近いことを知った一家は、父親と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃避行を開始した。途中で列車に乗ったものの咸興駅で降ろされた。収容されている旅館で、5歳の弟と2

    家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生(伊藤 孝司) @gendai_biz
    bogus-simotukare
    bogus-simotukare 2019/04/21
    「許可された取材は北朝鮮に利用されるだけ」とたびたび言われた。だが日本国内でも、許可を得ないと取材できないことはある。取材に大きな制約や困難があっても、現場に行ったから分かる事実はいくらでもある
  • 家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生(伊藤 孝司) @gendai_biz

    私が北朝鮮取材を繰り返す理由 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を、取材のために頻繁に訪れている。その回数は1992年から40回になり、近年は1回に半月ほど滞在している。北朝鮮からもたらされる情報は極めて少ない。そうした「未知の国」の知られざる姿を取材し、雑誌とテレビで発表してきた。 私は1980年代から、アジア太平洋戦争に関する取材を日国内だけでなくアジア諸国で続けてきた。「北朝鮮」はその「空白」となっていた。そのため1992年に、おっかなびっくりで訪朝。繰り返し訪れる中で、北朝鮮社会のさまざまなことに関心を持つようになった。 ただ取材許可は容易に出たわけではなく、何度も断られながらもようやく実現させたものばかりだ。取材の許可を得るためだけに、平壌まで行ったことが幾度かある。 「許可された取材は北朝鮮に利用されるだけ」と、発表を交渉したメディアの担当者からたびたび言われてきた。だが日

    家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生(伊藤 孝司) @gendai_biz
    bogus-simotukare
    bogus-simotukare 2019/04/21
    「拉致問題が最優先」として、残留日本人と日本人妻の里帰りに取り組まないのは非人道的で明確な棄民政策である。/そうした棄民政策を主張してる救う会、拉致被害者家族会は「存在自体が社会悪」。滅亡した方がいい