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日本とフィリピンに関するcustardtarteのブックマーク (4)

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    東南アジアで日は何をしたのか 林 博史 この原稿は、高校日史教科書の出版社でもあった自由書房が高校教員や高校生向けに出していた月刊誌『時事教養』に2年間20回で連載を頼まれて書いたものです。ところが最初の1年間10回の連載が終わった時点で、『時事教養』が休刊(廃刊)になってしまったために、残りの10回分が宙に浮いてしまいました。ここに20回分全部を掲載します。毎回、短いコラムだったので参考文献も何も書いていません。ただこれがあったので『キーワード 日戦争犯罪』を書くときに役に立ちました。(10回分の掲載は、『時事教養』第692号、1994年4月~第701号、1995年2月)   1999.4.1 1 東南アジア侵攻から始まったアジア太平洋戦争 2 近代の日と東南アジア 3 マレーシア・シンガポール(上) 4 マレーシア・シンガポール(下) 5 インドシナ(ベトナム・ラオス・カン

  • レイテ島と山梨県甲府市の日本住血吸虫 | 探検コム

    軍に追い詰められ、フィリピンから脱出したマッカーサーが残した有名な言葉が “I shall return.” で、訳せば「絶対に戻ってくる」。 その言葉通り、フィリピンのレイテ島にマッカーサーが再上陸したのは、1944年10月20日のことでした。 この日の前日、日軍は「捷一号作戦」を発令しており、米軍に対し、徹底抗戦することが決まっていました。こうして、レイテ島は「天王山の戦い」となり、大激戦が始まります。 12月28日、日軍は島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移します。 1945年1月1日、カンギポット周辺にいた1万人近い日兵は、米の飯を炊いて正月を祝いました。いかにも平和的な光景ですが、実態は大きく異なります。 レイテ島の戦いを描いた大岡昇平の『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日兵は8万4006人います。しかし、生還できた人間はわずか2500名。 この時点で

  • マニラ市街戦──その真実と記憶──(Web版)

    Unofficial Site of NAKANO Satoshi, Ph.D., Professor of History at Hitotsubashi University Graduate School of Social Sciences / 中野聡(一橋大学教員)から、あれやこれやの四方山(よもやま)話です。 2016年1月26日、天皇陛下はフィリピン共和国への親善訪問に出発される際の「おことば」で、「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と述べられました。マニラ市街戦とはなんだったのでしょうか?以下、その概要とマニラ戦をめぐる記憶の問題について、2007年前

    マニラ市街戦──その真実と記憶──(Web版)
  • 「日本の父」に会いたいと願う子どもたち。「フィリピンの母」の苦悩と誇り|ニッポン複雑紀行

    「フィリピンパブ」の歴史から飛行機で4~5時間の距離にあるフィリピン。この国と日歴史は長い。 豊臣秀吉の時代には両国の間で交易が行われ、江戸時代にはマニラに日人町が形成されていたといわれる。明治時代から戦前にかけて、日政府の主導で日人移民が入植し、マニラ麻の栽培に従事した。戦時中は日軍がフィリピンを占領し、甚大な被害をもたらした。 フィリピン・マニラ市内。経済格差が大きく高層住宅貧困地区が隣り合う。 そして戦後、外国人労働者の受け入れを公に認めてこなかった日が事実上いち早く門戸を開けたのは「エンターテイナー」とよばれるフィリピン人女性たちに対してだった。 高度経済成長を遂げた日は1980年代、歓楽街での人手不足から、フィリピン人の女性たちに対して「興行ビザ」の発給を始めた。興行ビザは芸能やスポーツなどのために来日する人に与えられるビザだ。 女性たちはフィリピンでオー

    「日本の父」に会いたいと願う子どもたち。「フィリピンの母」の苦悩と誇り|ニッポン複雑紀行
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