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上洛するもすぐに下向、一条房家の土佐国内での闘いと対明貿易とのかかわり 「闘う」貴族、土佐一条家の創設と一条房家の実像(2) | JBpress (ジェイビープレス)
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(中脇 聖:日本史史料研究会研究員) ◉「闘う」貴族、土佐一条家の創設と一条房家の実像(1)(https:... (中脇 聖:日本史史料研究会研究員) ◉「闘う」貴族、土佐一条家の創設と一条房家の実像(1)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69192) 一条房家の上洛と「闘い」 筆者は前回記事で「戦国時代の『闘う』貴族、土佐一条家を創設した一条房家はなぜ、逃げ回っていたのか?」と題して、土佐一条家の初代当主・一条房家の元服までの動向と、元服後の動向を朝廷や公家たち中央政界との交流と姻戚関係について紹介した。今回は、前回記事の続編として房家の上洛と土佐国内での「闘い」や対明貿易とのかかわりなどについて述べてみたい。 一条房家は、これまで触れてきたように、土佐国に「在国」したままで、一度として京の都に上洛(地方から都に赴くこと)したことがなかった。しかし、叔父であり、義兄で摂関一条家の当主であった一条冬良が永正11年(1514)3月に51歳で薨去(こうきょ。三位