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石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」 NHK大河で描かれた「伊達政宗毒殺未遂」は史実なのか (4ページ目)
家康に評価された「北の関ヶ原」での功績 文禄5年(1596)閏7月、慶長伏見地震が発生すると、義光は秀吉... 家康に評価された「北の関ヶ原」での功績 文禄5年(1596)閏7月、慶長伏見地震が発生すると、義光は秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけ、その後も同様の行動を繰り返した。慶長5年(1600)、家康が上杉景勝を討つべく会津討伐に出陣すると、奥羽地方の大名たちを先導するように家康に味方している。 その後、石田三成らが挙兵して家康らが西上すると、義光らは奥羽に残って上杉勢を牽制する役目を負った。そして、上杉群を会津地方(福島県西部)まで押し戻し、この戦功で出羽国を中心とした57万石の大大名にのし上がった。 上杉を牽制した戦いでの功績は、関ヶ原の戦いでの奮闘よりもずっと価値があるという見方がある。そもそも「天下分け目の戦い」は上杉征伐からはじまり、家康軍は会津に向かっていた。ところが、三成らが挙兵したので西に急ぐ必要が生じたが、もし東から上杉が西上したら、家康たちはきわめて危険な状況にさらされる。 実
2024/10/11 リンク