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菅原道真の逆襲3.溺死!源 光 !!
藤原時平の死後、政界首班になったのは、右大臣源光(みなもとのひかる。「天皇家系図」参照)であった。 ... 藤原時平の死後、政界首班になったのは、右大臣源光(みなもとのひかる。「天皇家系図」参照)であった。 が、光は全然うれしくはなかった。 「余の身も危うい」 光は菅原道真が政界デビューした当初から彼を憎んでいた。 彼は時平派の最右翼であったからこそ、道真の後釜(あとがま)として右大臣を襲うことができたのである。 「菅家に反した者は、みなみな殺されていく……」 延喜九年(909)七月には、仏教界のトップ、僧正・聖宝(しょうぼう。「天皇家系図」参照)も死んだ。 『都に結界を張り巡らせなさいませ!まだまだ仏の力が足りませぬ!諸大寺に四天王像や十二天像などをたくさんたくさん造らせるのです!』 聖宝は醍醐天皇の信任厚く、勅願寺・醍醐寺を創建した真言宗の高僧である。東密小野流の祖であり、修験道中興の祖でもある彼の法力はすさまじかったが、ついに力尽きて命を落としたのであった。 『うう、無念……。菅公の怨念が
2013/11/04 リンク