吉森佳奈子「「日本紀」による注――『河海抄』と契沖・真淵」も注意を促すところだが、本居宣長『源氏物語玉の小櫛』五の巻に次の記載がある。 花やかなる 河海に、声花(ハナヤカ)[白氏文集]とあり、すべて此物語のうち、詞の注に、かやうにからぶみ又は日本紀などの文字を引れたることおほし、それが中に、まれにはあたれるも有て、一ツの心得にはなるべきもあれども、おほくはあたりがたくして、みだりなることもおほし、さればひたぶるに注のもじにすがる時は、詞の意を誤ること也、大かたいづれもいづれも、注の文字にはよるべからず、こゝの声花も、白氏文集にては、はなやかとよみて、かなふべけれども、然りとて、はなやかを、声花の意とのみ心得ては、いたく違ふべし、されば声花をはなやかとは訓(ヨム)べけれども、はなやかを、声花とは心得べきにあらず、おほかたいづれの調の注も、此わきまへ有べきなり、 『河海抄』は白氏文集から「声花
誰も私に問わなければ、 私はそれを知っている。 誰か問う者に説明しようとすれば、 私はそれを知ってはいない。 この講演で、小林は『本居宣長』(昭和52年)については、<一言も言い残したことはない。読んでくれさえすれば良い>と言い切っていることから『本居宣長』刊行直後には、本居宣長については、新たに文章を書くつもりは全く無かったことが判る。ところが、実際には二年ほどたってから「本居宣長補記(Ⅰ)」、「本居宣長補記Ⅱ」という二つの文章が相次いで発表され、この二つの文章だけを収録した113ページの薄い単行本『本居宣長補記』が、『本居宣長』と同じ装丁で昭和57年に出版されたのであった。 これは。一体どういうことなのであろうか。 この小林の心変わりの裏には何があったのであろうか。 出版された『補記』を『本居宣長』と並べてみると、この二冊は厚さがいささかアンバランスで、私の眼には誠に不格好に映る。無様
出版が遅れた明確な答えは記載されていなかったが、出版の経緯や制作時期などは所蔵してある資料でわかった。 また、資料のひとつには「仕事の進行が遅れている場合は、宣長が病気をした場合とか、何か事故(原稿の紛失など)があった場合が多い。」とあるので、これも出版が遅れた理由の一つなのではないかと回答した。 1.『本居宣長全集 第9巻』には、原稿の作成、板下の出来上がりなどの一覧表が載っており、「仕事の進行が遅れている場合は、宣長が病気をした場合とか、何か事故(原稿の紛失など)があった場合が多い。」という記載があったが、出版の遅れに関する明確な記述はなかった。 2.『本居宣長の生涯』に「第二十二章『記伝』完成」とあるが、出版に関する記述はない。 3.『本居宣長事典』には、古事記伝の出版の多くを受け持った永楽屋についてや、出版の際に必要となる版木の記述はあったが、出版が遅れたことなどは記述がなかった。
誰も私に問わなければ、 私はそれを知っている。 誰か問う者に説明しようとすれば、 私はそれを知ってはいない。 <戦後の知的世界をながめてみる。吉本隆明、山本七平、小室直樹といった人びとは、本質的で普遍的な仕事をしている。いっぽう、大御所と仰ぎみられている丸山眞男、小林秀雄は、普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている。そこで、みながこれから大きな建物を建てるのに、まず必要な地ならしをしておこうと思った。> と『小林秀雄の悲哀』の「あとがき」では、著作に至った橋爪氏の基本的な着想が述べられているが、『丸山眞男の憂鬱』『小林秀雄の悲哀』のニ著は、<本質的で普遍的な仕事をしている>三人のうち、山本七平の褌でもって<普遍的なみかけなのに、それぞれ問題を抱えている>丸山眞男、小林秀雄それぞれを相手に相撲を取って見せた著作と言って良い。具体的には、山本七平の『現人神の創作者たち』に依拠して、丸山の
小林秀雄を書きたいのか、本居宣長を書きたいのかといえば、今夜は宣長をめぐりたいのである。 それなら宣長の『古事記伝』や『排蘆小船』(あしわけのおぶね)や『玉くしげ』などをとりあげればいいだろうに、そうしないのは、ひとつには、まだ宣長を書くにはとうてい読みきれていない個所が多すぎるということがあり(たとえば宣長には72年間におよぶ日記がある)、もうひとつには、今日の時代に宣長を問うには現在者を少なくとも一人は介在させたいからである。 その一人には小林秀雄こそがふさわしかった。いや、津田左右吉や保田與重郎(203夜)に、あるいは石川淳(831夜)や丸山真男(564夜)に伴走してもらいながらでもよいのだが、そういうことはこれまでにもある程度やってきたことなので、今夜は是非にも小林秀雄なのだ。 それに、なんといっても小林にあっては、ランボオ、モーツァルト、ゴッホ、ドストエフスキー、ベルグソンなどを
なぜ、本を読むのか? Why do we need to read books なぜ、本を読むのか?本書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれた本の中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の
日野龍夫(校注).『本居宣長集』(新潮日本古典集成 新装版).新潮社.2018 https://www.shinchosha.co.jp/book/620878/ 去年、「本居宣長」という本をいくつか読んだ。これは、その時に読もうと思って買っておいたものである。その後、『失われた時を求めて』を読んだり、ドストエフスキーを読んだりしていた。手元にあった本なので、何気なく読み始めた。 『紫文要領』……これは、本居宣長の物語論、もののあはれ論、源氏物語論を代表する著作である。 読んで思うことは次の三点になるだろうか。 第一に、江戸時代の国学という学問の中に、それまでの古典研究が流れ込んでいることの確認である。無論、宣長は、旧来の伝統的な勧善懲悪的物語解釈をしりぞけている。この意味では、従来の研究を否定しているのだが、それだけではない。やはり、この著作の中には、中世以来、『源氏物語』を読んできた歴
子安宣邦.『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2000 (青土社.1995) http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480086143/ 本居宣長についての本を読んでいる。 前回は、 やまもも書斎記 『本居宣長』芳賀登 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/10/01/8967240 『「宣長問題」とは何か』は、以前に買ってしまってあった本である。買った時に、ざっと目をとおしたかと思うのだが、今回、改めて読み直してみることにした。 著者(子安宣邦)の言う「宣長問題」とは、次のようなものである。 「私がいま宣長を再浮上させ、いま問わなければならぬ「宣長問題」をこのように問題構成し、このように論じようとするのは、私たちの「日本」についてのする言及が、「日本」という内部を再構成し、「日本人」であるこ
熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018 http://www.sakuhinsha.com/philosophy/27051.html 続きである。 やまもも書斎記 2018年9月22日 『本居宣長』熊野純彦(外篇) http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/28/8965901 この本の後半、内篇になって、著者(熊野純彦)は、本居宣長の内側へとはいっていく。その著作を読み解きながら、その思考のあとをたどろうとしている。このとき、先行する本居宣長研究も膨大なものになる。この本の巻末には、そのリストが掲載になっている。 もちろん、本居宣長の著作も膨大な量になる。そして、それを論じようとするならば、『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』をはじめとして、古代から中世、あるいは、近世までの和歌の歴史に通暁しておく必要があるだろう。無論、『源氏物語』は必読であ
『本居宣長』というタイトルの本を読んでいる。これまでに読んだものは、次のとおり。 やまもも書斎記 2018年3月15日 『本居宣長』小林秀雄 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701 やまもも書斎記 2018年9月3日 『本居宣長』子安宣邦 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300 やまもも書斎記 2018年9月10日 『本居宣長』相良亨 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/10/8958519 やまもも書斎記 2018年9月14日 『本居宣長』田中康二 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/14/8960094 そして、熊野純彦の『本居宣長』である。 熊野純彦.『本居宣長』.作品社.2018
相良亨.『本居宣長』(講談社学術文庫).講談社.2011 (東京大学出版会.1978) http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211536 本居宣長そのものを読むべきなのだが、その周辺を読んでいる。「本居宣長」のタイトルをもつ本である。この本も、タイトルは、『本居宣長』になっている。 やまもも書斎記 2018年3月15日 『本居宣長』小林秀雄 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701 やまもも書斎記 2018年9月3日 『本居宣長』子安宣邦 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/09/03/8955300 読んでの印象は……これはこれで、ひとつの宣長論になっている、ということ。本書の基軸としてあるのは、〈もののあはれ〉と〈神道論〉である。 一
続きである。 やまもも書斎記 2018年4月27日 本居宣長記念館に行ってきた http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/27/8834173 この施設について私の感じるところとして述べるべきことは、次の二点に整理できるだろうか。 第一は、本居宣長記念館は、本居宣長の「アーカイブズ」である、ということである。あるいは、本居宣長関係の、「MLA」複合施設と言ってもよいかもしれない。 本居宣長の著作(版本)のみならず、その草稿もある。また、知人との書簡もある。描いた絵図などもある。文献を読んでの抜き書き・メモのようなものも残っている。また、『古事記伝』については、その版木も残されている。あるいは、書物の貸し借りの記録などもあったりする。さらには、今日において刊行されている、本居宣長全集をはじめ、関連する国学関係の書籍もある。 ここには、本居宣長という人物、お
誰も私に問わなければ、 私はそれを知っている。 誰か問う者に説明しようとすれば、 私はそれを知ってはいない。 良く小林の本質は「詩人」だといったことが言われるが、彼の文章は一種の「詩」としてしか読まれていないように思われてならない。例えば『モオツアルト』なども「疾走する悲しみ」といったキラー・フレーズばかりが注目され、この文章全体に一貫して流れている古典派からロマン派への発展を堕落と捉える小林の音楽史的理解が注目されることはほとんどない。散文としての論理性はほとんどの場合理解されていないのが通例である。同様に小林の『本居宣長』も、精緻に読もうとすると見た目以上に難しいテキストであって、その論理構造を正確に読解した試みは、これまでにはほとんど見られなかったように思う。勿論、その総てを読んだ訳ではないが、日本文学大賞受賞時の評などが典型で、これまで書かれた『本居宣長』評は、この意味で殆どが印象
続きである。 やまもも書斎記 2018年3月15日 『本居宣長』小林秀雄 http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/03/15/8803701 小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977) http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/ http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/ 普段、本を読むとき、付箋をつけながら読む。だが、この本(『本居宣長』)を読むときは、極力、付箋をつけなかった。付け始めたら、毎ページ付箋だらけになってしまいそうだったからである。 だが、そうはいいながら、どうしても、このことばは、小林秀雄が読んだ本居宣長として記憶にとどめておきたいと思って、付箋をつけた箇所がある。その一つを次に引用しておく。 「それが、宣
小林秀雄.『本居宣長』(上・下)(新潮文庫).新潮社.1992(2007.改版) (新潮社.1977) http://www.shinchosha.co.jp/book/100706/ http://www.shinchosha.co.jp/book/100707/ 再読、といっていいだろうか。この本が出たのは、1977年。私の学生のころである。そのころ、手にしていくつかの文章を読んだ記憶、また、その当時のこの作品についての書かれたもののいくつかを目にした記憶があるのだが、全部を通読するのは、始めてになる。新潮文庫版は、『本居宣長』(1977)に、「本居宣長補記Ⅰ」「本居宣長補記Ⅱ」、それから、江藤淳との対談をおさめる。また、注記もついている。しかし、解説・解題の類はない。 この本が出た時、私は、大学で国文学を学んでいる学生であった。そのせいだろう、気になって手にした本ではある。だが、(研
丸山眞男「日本政治思想史研究」を読んでいる。その感想をツイートしたら、@finalventさんとこんなやりとりになった。 @finalvent: で、小林秀雄が壮大なちゃぶ台返し。“@yagian: 「日本政治思想史研究」は、論理の展開と構成の見通しがよくて、紆余曲折しながら議論を進めていくフーコーと違って、要約が非常に楽。日本語は論理的ではないという主張をする人に、丸山眞男の本を読ませて感想を聞きたい。” 2010-06-19 07:28:09 via Twitter for iPhone @yagian: 『本居宣長』って、結局何が言いたいのかよくわからなったです…… RT @finalvent で、小林秀雄が壮大なちゃぶ台返し。“@yagian: 「日本政治思想史研究」は、論理の展開と構成の見通しがよくて、紆余曲折しながら議論を進めていくフーコーと違って、要約が非常に楽。 2010-
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