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Tibetとtibetに関するfunaki_naotoのブックマーク (161)

  • 「ブルシャスキーって何語?」の巻(7) チベット文字ドゥツァ体

    stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。 チベット文字にはいろいろな字体があります。一般によく見る はウチェン(dbu can/有頭字)と呼ばれ、いわゆる楷書体・活字体です。これに対し主に筆記体として用いられるウメー(dbu med/無頭字)という字体があります(注)。 そのウメーの一種に、「ドゥツァ/ジュツァ('bru tsha)体」という字体があります。 図の出典は、 ・Alexander Csoma de Körös (1834) A GRAMMAR OF THE TIBETAN LANGUAGES. Calcutta. → Reprint : (1938) 文殿閣書荘, 北京. 「'bru tsha」は「bru sha/'bru zha」の訛りとされ、これは当然「ブル

    「ブルシャスキーって何語?」の巻(7) チベット文字ドゥツァ体
  • ★『チベット語になった『坊っちゃん』』発売中 - 旅限無(りょげむ)

    昨年、暮れ忙しい最中に、旅限無は『チベット語になった『坊っちゃん』』というを山と渓谷社より出版しました。業界の力関係で、全国の書店で簡単に入手できる状況には無いのが、実に心苦しいのですが、旧弊に安住している配体制を乗り越えつつあるネット通販で、何と海外在住の方にも御購入いただいている由。便利な世の中になったものです。今年は『坊っちゃん』100周年とも仄聞(そくぶん)いたしました。是非、漱石が残した財産を再読して頂きたい。そして、関連として拙著も手に取っていただけますれば、望外の幸せと存じます。以下に、恥を忍んで中身をおずおずと紹介させていただきます。 旅限無は1998年から2000年まで中国・青海省でチベット語を学び、2001年の1年間はチベット人学生にチベット語で日語を教えておりました。このはその時の体験・思索をまとめたものです。 ■の概要 の最初はチベット留学の動機から始

    ★『チベット語になった『坊っちゃん』』発売中 - 旅限無(りょげむ)
  • [科学に佇む心と身体] - FC2 BLOG パスワード認証

    管理人からのメッセージ 某A社との契約を切られた関係で、大幅な更改を行わねば公開できない状態に陥った ため閉止しました。 ご連絡は http://sciencebook.blog110.fc2.com/ もしくは https://twitter.com/endBooks/

  • [科学に佇む心と身体] - FC2 BLOG パスワード認証

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  • 【書評】『なぜダライ・ラマは重要なのか』ロバート・サーマン著、鷲尾翠訳 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

  • インド発チベット宛の黄色い手紙を中国まで届けた話。 - とれいん工房の汽車旅12ヶ月

    今から9年前、2000年の3月。僕はインドの首都、デリーで長滞在していた。 目的は、中央アジア(旧ソ連)ウズベキスタンのビザを取得すること。その2年前、アエロフロートの飛行機でモスクワからタシュケント空港まで到着したにもかかわらず入国できず、武装警官に取り囲まれながら同じ飛行機で強制送還と相成った。そのリベンジを果たすべく、毎日、在デリーのウズベク大使館に通い続けていた。でも、2週間待っていても国よりOKサインが来ず、そろそろインド飯にも飽きてきたんで、別な国の大使館でチャレンジしようと思い始めていた。 とりあえず、先々のことを考えて中国のビザを取得。「でも、ウズベキスタンのビザが取れないとオレの旅行が成りたたんのよ」……と、ボヤいていると、安宿で隣のベッドで寝起きしていたオランダ人が声をかけてきた。 「おまえ、中国に行くのか?」と。 「何ヶ月かかるか分からないけどね」と伝えると、彼はカ

    インド発チベット宛の黄色い手紙を中国まで届けた話。 - とれいん工房の汽車旅12ヶ月
  • webDICE - 骰子の眼 - 『風の馬』チベット・コラム 第1回:チベット人の魂は抑圧できない(西蔵ツワン)

    実話をもとにチベット問題を真正面から捉えた衝撃作『風の馬』が今春より公開される。作に寄稿されたチベット・コラムの連載スタート 西蔵ツワン氏 チベットの魂 文:西蔵ツワン (武蔵台病院 副院長、埼玉医科大学 消化器肝臓内科 非常勤講師) 私は1952年にチベット第二の都市シガツェで生まれました。父はチベットでとれる岩塩をインドやネパールへ運び米と交換する、いわゆる「塩の道」の交易を仕事としていました。ところが59年の動乱で、人民解放軍はチベットの指導者たちを次々と逮捕していき、私たちの平穏な生活はあっという間に崩れていきました。その頃、仕事でインドに滞在していた父は、危険を感じひとりインドに亡命しました。それから三年間、私は中国政府がつくった小学校に通いました。そこで学んだ中国共産党教育は、“洗脳”ともいえるものでした。今では信じられませんが、幼かった当時の私はダライ・ラマ法王を“反逆者

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  • 「棄宗弄讃って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写~

    stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。 前回「漢字によるチベット語発音の転写は精度が低い」と書きました。その意見に変わりないのですが、利点・功績にも触れないといけませんね。 中国はチベットとの付き合いが古く(6世紀末に始まる)、古代チベットに関しては、外国としては最も古い、そして詳しい情報を大量に残してくれています。 唐代の史料(あるいは唐代の史料を利用した後世の編纂もの)である『舊唐書』、『新唐書』、『冊府元亀』、『資治通鑑』などには、吐蕃時代のチベット語の単語(主に固有名詞)を漢字で転写したものが大量に残されています。 その漢字による転写の記録により、古代チベット語では、現代チベット語では発音されない添字(注1)なども発声し、よりスペルに近い発音をしていたことがわかりま

    「棄宗弄讃って誰?」の巻 ~漢字による古代チベット語転写~
  • 本blogでのチベット語・チベット文字の表記

    stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。 このblogにはチベット語が頻出しますが、その際にチベット文字を他の文字に置き換える「転写(transcription)」という方法で表示します。 最近ではWeb上でチベット文字を表示する手法もだいぶ発達してきたようですが、とっても古いスペックの環境で作っているこのblogでは当面無理です。まあ現在できる範囲でのんびり行きます。 で、その転写ですが、現在業界の主流になっている「Wylie(ワイリー)方式」を使います。 Wylie方式については、 ・Wikipedia : Wylie transliteration ・ウィキペディア: ワイリー方式 などをご覧下さい。 例としてblogのタイトルですと、チベット文字では ですが、これが

    本blogでのチベット語・チベット文字の表記
  • 「ベネチアも名誉市民授与 ダライ・ラマに、来月10日」:イザ!

    18日付のイタリア紙コリエレ・デラ・セラによると、北部ベネチア市はチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世を同市に招待し、来月10日に名誉市民の称号を授与することになった。  ローマ市も同9日に名誉市民の称号を授与する予定で、イタリアの自治体による2日連続の授与となる。いずれも、チベット問題を国際的にアピールすることが目的で中国の反発も予想される。 関連記事仏大統領、ダライ・ラマと会談 中国は…サルコジ大統領がダライ・ラマと会談 …記事文の続き ベネチア市はこれまでに、旧ソ連の反体制物理学者サハロフ氏や南アフリカのマンデラ元大統領ら世界の人権活動家らに名誉市民称号を授与している。(共同)

  • JAM|レトロ印刷とSURIMACCAで遊ぶ

    JAMはシルクスクリーンやリソグラフなどの孔版印刷に特化した、大阪の印刷会社です。《「遊ぶ」って、おもしろい。》を合言葉に、印刷で遊ぶ楽しさを世の中に広げていきます。

  • 農家の子どもから宗教指導者へ、ダライ・ラマ14世の半生

    ナイジェリア・ラゴス(Lagos)のムルタラ・モハメド国際空港(Murtala Mohammed International Airport)に到着したチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ(Dalai Lama)14世(2008年11月26日撮影)。(c)AFP/PIUS UTOMI EKPEI 【11月27日 AFP】生き仏としてチベット人の敬愛を集めるチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ(Dalai Lama)14世(73)。欧米社会は尊敬の眼差しでみつめるが、中国政府にとってはいまいましい存在と映る。 ダライ・ラマ14世は、1935年7月6日、チベット東北部のタクツェル(Taksar)という農村で生を受けた。ラモ・トゥンドゥプ(Lhamo Dhondrub)と名づけられたこの幼児は、2歳の時に先代ダライ・ラマの転生者と認定され、翌年、正式にダライ・ラマ14世として即位した。 1950年、

    農家の子どもから宗教指導者へ、ダライ・ラマ14世の半生
  • bTibet08 - ダライ・ラマ法王の教えと仏教文化を学ぶ | ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

    bTibet08 - ダライ・ラマ法王の教えと仏教文化を学ぶ Tibethouse Special Autumn Seminar on Tibetan Budhist Culture 日時:2008年10月18日(土)/11月15日(土)/12月20日(土) 会場:大山護国寺 東京メトロ有楽町線「護国寺」駅  1番出口すぐ 料金:入場無料 チベット人がチベットであることを再び問い掛けた今年の春。私たちチベット人はオリンピックに反対したのではありません。 「チベットであること」「チベット人であること」とは何か。この当たり前のことを訴えて、若者たちは立ち上ったのです。 私たちチベット人にとっては、ダライ・ラマ法王がいらっしゃること、そして慈悲と智慧の教えである仏教文化が続いていること。これが大切なことなのです。 秋の紅葉が美しい、大山護国寺の全面協力のもと、チベット仏教総山デプン・ゴマン

  • もじもじカフェ・第14回「チベット大蔵経木版印刷所デルゲパルカン」(2008年11月29日(土)、阿佐ヶ谷) | 笠間書院

  • もじもじカフェ > 第14回「チベット大蔵経木版印刷所デルゲパルカン」

    チベットは,7世紀の統一王朝建国以来,インド伝来の仏教が篤く信仰されてきた地です。8世紀以降,国家事業として仏教経典の組織的収集とチベット語への翻訳が行われ、チベット大蔵経としてまとめられました。写による複製だけでなく,木版印刷も行われるようになります。1410年に北京で初めて開版(版木を新たに彫って印刷・出版すること)されたあと,20世紀に到るまで,チベット各地で開版が行われました。 大蔵経の版木を製作・保存し,求めに応じて必要な箇所・部数の経典を印刷する宗教施設を印経院(パルカン)といいます。現在も印刷が行われている印経院は,東チベットのデルゲという街(中国四川省;標高3220m)にあるデルゲパルカンだけになってしまいました。デルゲパルカンは大蔵経を中心とする27万枚以上の版木を擁し,18世紀以来,今日に至るまで営々と木版手刷りの印刷を続けています。 デルゲパルカンでは,地元民が地元

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/10/19
    氣になる。
  • <ダライ・ラマ>仏テレビが異例の批判、CIAとの関係も―中国メディア - ライブドアニュース

    2008年10月12日、中国の「環球時報」はフランス国営テレビ「France 2」が9日、「の軌跡」というテーマの特集番組を放送したと伝えた。同テレビ局は北京五輪前に、チベット問題に絡んで中国に関する一連のマイナス報道を行っているが、今回の特集はダライ・ラマに関する「負の部分」を採りあげた異例の内容。 「ダライ・ラマの軌跡」は「政治不干渉の宗教的指導者」と称する彼の矛盾した言動に注目。今年の訪仏前に「政治的活動は行わない」とマスコミに宣言しながら、訪仏後は上院議員30人を前に「中国のチベット弾圧」を訴え、同国政界の反中感情を煽っていた。番組では、ダライ・ラマがその後の記者会見でなおも「今回の訪仏は古くからの友人に会うため」と話している場面を流した。 チベットの歴史に関しては、14世紀以降のチベットの世界から取り残された封建的統治について紹介し、ダライ・ラマが逃亡するまで同地で行っていた専制

    <ダライ・ラマ>仏テレビが異例の批判、CIAとの関係も―中国メディア - ライブドアニュース
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ベルギーに行った 先日、ベルギーに行きました。 マグリットの絵とルーベンスの絵を見るのが目的。 あまり時間もなく、ブリュッセルとアントワープを駆け足気味で巡ることに。 ミュンヘンから車で10時間近くかかり、なんでこんな無茶をしてしまったのかとも思いましたが、ヨーロッパの方…

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  • 20世紀初頭のチベットの写真等を大学図書館がデジタル化・公開(米国)

    米国ウィスコンシン大学ミルウォーキー校図書館が、世界初となるラサのポタラ宮殿の写真を含む、1900年から1901年と1932年から1937年にそれぞれ撮影された、チベットの写真約900点と、19世紀末から20世紀初頭のチベットの地図10点をデジタル化し、ウェブサイトで公開しています。これらの資料は、米国地理学会の図書館が保管しているもので、1900年から1901年に撮影された写真は、当時のチベットを訪れたモンゴル人仏教徒によるもの、1932年から1937年に撮影された写真は、米国人の写真家・冒険家フォルマン(Harrison Forman)氏によるものだということです。20世紀初頭のラサは、外国人が足を踏み入れることを禁じていたため、これらの写真は非常に貴重なものとなっています。 なお、このウェブサイトでは、プリントされた状態のもの、ネガフィルムのものなど、さまざまなフォーマットで保存され

    20世紀初頭のチベットの写真等を大学図書館がデジタル化・公開(米国)
  • asahi.com(朝日新聞社):チベット―ふたつの窓から - 国際支援の現場から - 国際

    チベット―ふたつの窓から2008年5月27日アムネスティ・インターナショナル@中国・チベット神が宿ると信じられているチベット4大聖湖の1つヤムドゥク湖。(c)ルンタプ ロジェクトラサのセラ僧院で、問答をする僧侶たち。3月の武力弾圧の際にほとんどの僧 侶が逮捕されてしまったという。(c)ルンタプロジェクト2008年4月10日「葬送の日」に行われた模擬葬式の様子。チベットの武力制圧 で亡くなった死者を弔い、中国政府への抗議の意思を示した。(c)ルンタプロ ジェクト供養の儀式の後、河原に並べられた死体に火が放たれた。(c)ルンタプロジェ クト 「チベット」と聞いて何を想像しますか? ダライ・ラマ? 神秘の国?  現在、チベット人の多くは中国のチベット自治区とインドに住んでいます。ふたつの国で、彼らは何を思い、何を背負って生きているのでしょうか? ちょっとのぞいてみましょう。 <ラサで見た夢−チベ

  • 文-体・読本: 中国への遠慮