ただいま色々画策中。脳死者からの臓器移植法案に関して、あちこちで色々と言われていることは知っている。わたしも、医療従事者ニュースサイトで情報は見ている。ある種のブログなんか見てみると「なんだろうねえこの人たちは」と言いたくなるトンチンカンなことを大上段でお説教しあっているような論争もあったりする。ただわたしは、今の騒動の中乗り込んで一言言う気にはどうもなれない。 わたしが毎日関わっているのがその「脳・・・
ただいま色々画策中。脳死者からの臓器移植法案に関して、あちこちで色々と言われていることは知っている。わたしも、医療従事者ニュースサイトで情報は見ている。ある種のブログなんか見てみると「なんだろうねえこの人たちは」と言いたくなるトンチンカンなことを大上段でお説教しあっているような論争もあったりする。ただわたしは、今の騒動の中乗り込んで一言言う気にはどうもなれない。 わたしが毎日関わっているのがその「脳・・・
A案可決のニュースを見たとき、高校生の上の子が「一人生きるのに一人死ぬなんてかわいそう」と涙ぐんで、 でも一人死んで、生きられるのが一人だとは限らない可能性を私は黙っておいた、子どもに言われるまで気がつかなかったから。 これもまた「多数決」の原理なのかな、重い障害を負った人間はこの社会で生きていくのに「許し」が必要か、色々思ったが、 「親が提供を決める」に違和感を覚えたらしい子どもたちに「ママはあなたたちの臓器は提供しません、あなたたちのためにはもらうけど」と言って、 下の子には「なんて身勝手な」と笑われて、でも、私のこの答えに子どもたちは「安心」するのが現実、 「人の親」であるというのは「身勝手」を子どもに望まれることでもある。 子どもにとって「臓器提供」は違和感を覚えるらしく、私の子どもたちに関する限り、自分の体が「部品」のように扱われること、 そしてそれを親が容認しても「いい」ことを
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