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ブックマーク / chazuke.hatenadiary.jp (2)

  • 追記。 - ちゃずけのはてなにっき

    A案可決のニュースを見たとき、高校生の上の子が「一人生きるのに一人死ぬなんてかわいそう」と涙ぐんで、 でも一人死んで、生きられるのが一人だとは限らない可能性を私は黙っておいた、子どもに言われるまで気がつかなかったから。 これもまた「多数決」の原理なのかな、重い障害を負った人間はこの社会で生きていくのに「許し」が必要か、色々思ったが、 「親が提供を決める」に違和感を覚えたらしい子どもたちに「ママはあなたたちの臓器は提供しません、あなたたちのためにはもらうけど」と言って、 下の子には「なんて身勝手な」と笑われて、でも、私のこの答えに子どもたちは「安心」するのが現実、 「人の親」であるというのは「身勝手」を子どもに望まれることでもある。 子どもにとって「臓器提供」は違和感を覚えるらしく、私の子どもたちに関する限り、自分の体が「部品」のように扱われること、 そしてそれを親が容認しても「いい」ことを

    追記。 - ちゃずけのはてなにっき
    gonzales66
    gonzales66 2009/07/18
    理解できなかった>"私は森岡さんのあの意見でA案に「反対」は出来なくなった"
  • 「可決」に思う。 - ちゃずけのはてなにっき

    A案、可決。「感じない男」の森岡さんが「それを言っちゃあ、おしまいよ」のことを書かれていたようだ。 臓器提供を待ち望む親がその子どもの臓器を提供する意思はあるか、との問いかけで、 それは、子どもの臓器提供を迫られている親が、もし臓器提供を受ければその子どもが「脳死」とされた状態が「直る」としたら、どうするか、と 突きつけられているのと同じことだ、でも、私の答えは決まっている、当然、「私の子どもには臓器をください」である。 この身勝手さこそが「こども」の「親」であるという現実だ。矛盾と絶望の中に突き落とされる親が確実に存在することを私は哀しいと思う。 私自身は臓器提供の意思カードを持っているが、考えたくもないが子どもの臓器提供に対してはもう「当然」と言っていいほど「否定」の立場をとる。 例え、子どもに提供の「意思」があったとしても、私はそれを容認することは出来ない、 万分、億分の一でも、ひょ

    「可決」に思う。 - ちゃずけのはてなにっき
    gonzales66
    gonzales66 2009/07/14
    自分はあのエントリーがきっかけで、A案には反対の意見を持った。茶漬さんは結局は思考停止か?>”私は可決した案に賛成も反対も出来なかった。”
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