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ブックマーク / goboubss.blog.shinobi.jp (21)

  • 牛蒡 成長が楽しくなくなったら人生も楽しくないだろうなぁなんてことを思ったり

    なんか はてな匿名ダイアリー:勉強が出来る=頭がいい? 勉強が出来る=何がいい? 「勉強ができる」という蔑称 あたりをよんで。 とりあえずダンコガイは「おれは中三の時には高校の勉強全部で来てたぞえっへん東大がなんだ東大ごときで偉そうにするな」というスタンスなんだから,いまさら「いや,自分勉強できませんから」とかいうのはどーなのよ。ダブルスタンダード(笑) 僕自身は勉強自体は楽しかったです。 できないことができるようになる,一個ずつ問題をクリアしていくという感覚が学校の勉強だと思ってて,そのやり方を教わるのは好きじゃなかったけど問題を解くのはすごく好きだった。悩んでるのが好きだったのだと思う。 それとは別にこれはどうしてこうなってるんだろう,これがどうなったらこうなるんだろうということを考えるのも好きで,道路の舗装ブロックを延々と眺めてたりとか,単純作業してる人の手元をずっと見てるとか,折り

    hatayasan
    hatayasan 2008/12/25
    「勉強というのは内部で処理してる時の状態が本当は大切なはずなのに外部に出てきたものしか評価できないというシステムになってる。」
  • 牛蒡 母親にトドと呼ばれて育った僕が通りますよー

    http://anond.hatelabo.jp/20081030202847 この人に共感しまくるびーせいそーですこんばんは。っていうか 容姿が平均以下の女の子の生きる道を教えてください : 家族・友人・人間関係 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) の問題と根っこは同じだなーとかおもった。 いやー僕は昔一時期太っていた時期があるわけだが、その時期に入る少し前に同級生にすっげー嫌なやつがいて毎日毎日僕の服装についていちいち指摘してくるやつがいたのね。私服だったのでもちろん小学校のころの話です。そいつはそれなりにおしゃれだったんだけど。今何してるか知らんが。 んでまぁそういうことを毎日されると服装に対するチャレンジが出来なくなるもんなのよね。別に僕はそんなに服に興味があるほうではなかったが、思春期に向かっていくにしたがってある程度身なりを気にするようにな

  • 牛蒡 これなー

    http://d.hatena.ne.jp/thir/20080827/p1 ゆとりで学力低下したか?って話なんだけど結果的に見ればしていると思う。ただ学力低下に関して何を持って低下したのかというのは色々と場合わけできるので、単純に知識がないからというわけでもないし、応用力がないからというわけでもないとは思う。偏差値などは同学年の同じ(多少一、二年のぶれは存在するが)教育を受けてきた人の中での位置しか示さないので偏差値が変化していないから学力が低下していないというのは早計だろう。 塾講をやめてからはめっきり教えることが少なくなったので最近がどうなのかはよくわからないが、学部の三年生のTAをしていたのでふーむと思うことは多少ある。僕自身学部の成績はかなりよくないほうだったので人のことは言えないのだが、十数人の学部三年生のTAをしていると素の頭の回転の速さの違いというのはわかるし,どの程度の知

    hatayasan
    hatayasan 2008/08/28
    キャパシティが足りなくなるタイプの分類。「僕も今でもおお!こんなところで!今まで気づかなかった!と思うことが結構あるので自分でもしかして?と日々思う訓練をしとかないとだめですね。」
  • 牛蒡 うーむ

    吃音 重度の吃音者で、今就活してるんだけど、僕もなんか内定でないわー。 と、言うよりも、面接があったらそこで切られる感じ。 うーん。これは実際のところどうなのかはよくわからない。僕もかなり重度の吃音癖はある(最近はあまり出ないが気を抜くとというか自信がないととんでもない勢いでどもるし何いってるか分からないといわれる場合もある)し,就職の面接時もどもるわ黙るわ声小さいと書かれてるわどうしようもなかったのになぜか決まったしなぁ…ということを思う。まぁそうなるだろうということはあらかじめ予測したうえで臨んでるし…。付き合ってくしかないからねぇこの問題は。治らないし(ある程度は改善するが 僕の場合は最初の発音からどもる。そして、十秒近くいえないことがある。 今日も説明選考会行ってたんだが、なんか調子狂ったマシンガンのごとくどもりまくった。 こうなってきたら、どうしようもない。 あ,あるあるすぎる。

  • 牛蒡 じ,じすうせいげんひっかかっためずらしい!

    hatayasan
    hatayasan 2008/04/15
    ブログサービスの一言レビュー。「あとわりとパソコンばっかいじってるけどってひとにもはてなブックマークというのは知られていないし,雰囲気なんてなおさら。」
  • 牛蒡 価値観は変えるものではなく変わるものだ

    ついったーから吸い上げ。 受験なぞに価値観はいらん ただ日々なすべきことを淡々とこなし無知の知を知り一定量の仕事をすればそれに応じた結果がかえってくるだけだ 頭の良し悪しに関係なくただ量、それだけできまる 大仰にとらえて潰れていったひとや一時期たちどまってしまったひとをみた 自分のことを考える暇があるなら手を動かせ そんだけだ 価値観も大義名分も環境もなにもひつようはない 教養は道具だ 道具を使うのに意識は邪魔だ 道具は体の一部であり自由に意識を介さずにつかえねば、道具を使う以上のことはなせない 道具の使い方の習得は手を動かすこと以外にはありえない ただそれだけの シンプルな事実 教養のあるなしで頭のよしあしは決まらんよね。っていう。

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/29
    「日々なすべきことを淡々とこなし無知の知を知り一定量の仕事をすればそれに応じた結果がかえってくるだけだ」
  • 牛蒡 壁とか個人的な話とか

    なんか続いていますが、こないだの続き。 個人的な、内面に近い話をすることはネットというかオンラインでも可能ではある、とは思う。できないことはない。ネットはツールだからそこから交流は生まれるし、その中で自分の深いところに沈む要素を見せることもあるだろうとは思う。それは顔を見てしゃべるよりもいくらか不安だけれどもいくらか楽で、表情とか声色とか時間とか場所とかそういうのを気にしなくていいおかげで言葉を言葉としてだけ表現すればよかったりもする。相手がどんな顔をしているかわからないからこそよいこともある。相手がどんな顔をしているか知りたいから、会って話したいこともある。まぁそのどちらも、ありうる。 ただねーつらいこととかつらかったこととか、そういうのってまたなんか違うんだよな。なんとなく。私は深いところにもぐっていくとそこらへんにたどり着いてしまうので多分ネットでオープンには話さないんだろうな、とは

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/21
    「話せる相手がいるときにどうすればいいかって言うのはその相手との距離感なんだろうなと思う。誰とでも同じわけではなくて、お互いが一番ストレスがない方法で、その時にやっと出すことができる。っていう。」
  • 牛蒡 そういや若干乗り遅れた感があるがまぁいいかということでお気に入り曝し

    妙に増やす時期などがあるので時期ごとに。 第一期 2005年終わりから2006年春ごろまでに追加した方々。はずしてしまった方もいるし一旦はずしてまた戻した方もいるのでまぁちょっと曖昧ですが。コメントが多い人メインという感じかなぁ。あとジェンダー関連,教育関連,女性関連の人が多い気はする。後一日あたりの流量数が少なめの人が多いですね。あ,TakahashiMasakiさんは多いけど。 kmizusawaさん ジェンダー関連からか。興味がある話題が多かったのとコメントが好きでした(なぜ過去形 TakahashiMasakiさん 小町関連。コメントというかAAが…(笑 citron_908さん ジェンダー関連からか。カバー範囲が広いので今も楽しみにしています。コメントが比較的多いですね… jiangmin-altさん 教育関連・ニュース関連かと。 toyaさん 料理とかそれ系…かな。まさかお会い

    hatayasan
    hatayasan 2008/02/14
    知らないidばかり。こういうのはありがたい。
  • 牛蒡 結婚とか

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/28
    「本来なら当人同士だけの問題でそこは結構簡単にクリアできるんだけど周囲とか環境とかそういうのはかえるのは意外に難しいし疲れるよね」
  • 牛蒡 つまるところつまらないとかつまらなくないとか自分がどう思うかだけっていうそれだけか

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/24
    「主観で情報を切り捨てちゃってるなぁという人は結構多くて…結局身を守るんだろうけれども,もったいないよなぁということは多い。頭ばっかり大きくなって感覚に正直じゃない,みたいな。」
  • 牛蒡 開発と研究じゃ全然違うというのは肌で感じてきて

    どっちがむいてるかっていうとそれはわからない。どっちが好きかっていうと研究かな。でも開発も嫌いではない。それぞれにそれぞれのよさがあり、それぞれ苦手な部分がある。その比較はできるから、どちらがいいって言うのはできないなぁというのが結論か。 となるとどちらを選ぶかになるわけだが、そうすると人生の見通しをどうやって立てるか、ということになってくる。どっちにしても不透明だけどね。まぁでもちょっと疲れてきたのかもしれない。がんばることに。世間に逆らってがんばることに。好きなことやってるんだから自己責任といわれることに。そろそろ流されたっていいんじゃない、見たいな気持ちにはなりつつある。 他のことにしてもそうだ。嗜好なんかもだんだん選ばなくなってきている。すぐに手に入るもので楽しめればいいかなぁみたいな感じになりつつある。それにはそれのよさがあって、楽しい。どうやって生きやすいやり方を勝ち取っていく

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/22
    「流されて受け容れてそうしていく中で見つけるものも、拒否してぶつかりながら得るものもそんなに違いはないというかいつか同じものにたどり着く。」
  • 牛蒡 好きなものはこれって言う具体例を出せないのは

    好きなものでも好きな人でも何でもいいんだけど、言葉にしたくないなぁというのはある。感覚はかなり主観に引っ張られる傾向があって、それはよーく知っているのでだからこそ。かな。何も考えてないときにふと目にしたり触れたり聞いたりして、「あ、いいな」って思うあの感覚を信じたい。だから具体的な例を出したくない。その具体的な例にかなり引っ張られてしまうのがわかるから。思考を通さない感覚にはできるだけ耳を傾けたいと思う。その声はとても小さくてときどき聞こえなくなるから。だけどちゃんと聞かないと、簡単に思考は道を誤る。感覚を忘れた思考は簡単に道を失う。僕はそれを知ってる。

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/18
    「何も考えてないときにふと目にしたり触れたり聞いたりして、「あ、いいな」って思うあの感覚を信じたい。だから具体的な例を出したくない。…思考を通さない感覚にはできるだけ耳を傾けたい」
  • 牛蒡 嫌いな人はいないと嫌いな人はあんまいないは全然違うよ

    僕はあんまいないほう。つまり嫌いなやつは大嫌いだ。好きであればあったほど嫌いになったときはものすごい嫌う。そいつに関する話題が出るだけで顔をしかめるくらい嫌いだ。名前を聞きたくないのは当たり前だしできるだけ接触を持ちたくない。それまでのつながりは一切合財ばっさり切り落とす。そのくらい嫌う。でもそれでも嫌いだーーー!!!という気持ちは変わらないので、関わり合いがあると(仕事はともかくとして)皮肉を言いまくったりいじりまくったり或いは後ですごい愚痴を言ったりする。結局何か感じるのは止められないんだよね。まぁでもそういうのは醜いということはわかっているのでできるだけ接触しないように、口は噤むようにしようとはしてるけどにじみ出てくるもんはしょうがない。 好きの反対は無関心とはよく言ったもので、確かにあんま関わりたくねぇなぁと思う人とは自然と距離を置いてそのうち接点がなくなる。そして忘れる。嫌うって

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    hatayasan 2008/01/16
    「好きの反対は無関心…確かにあんま関わりたくねぇなぁと思う人とは自然と距離を置いてそのうち接点がなくなる。そして忘れる。/激しく誰かを嫌いになれないのは、激しく誰かを好きになれないってことなのかも」
  • 牛蒡 記憶方式について

    ちょっと話したりもしたのでとりあえず書いておこう。と思った。ファ断にもうちょっと一般化したのを書こうとは思うけどとりあえず考えてることはばんばん書いちゃえ。 僕は映像記憶をする。映像記憶というのは自分の目がカメラになった状態の映像を記憶するという意味であると同時に脳内に三次元形状を再構成するという意味でもある。で、それを記憶する。巻き戻しと視点の位置入れ替えは可能。音声付。だけど細かいものはぼんやりとしか把握してないし、文字情報は絵として記録されているのでパターンマッチングになる。こういう形は見たことある→その前後の映像という組み合わせで意味を把握して記憶する。まぁちゃんと文字として認識したりもするのだけれどもそれは文字として入ってきて文字としてだけ出力すればいい場合だけだ。アナロジーは一切絡まない純粋文字の場合だけ。 文字の認識についてはたぶん、ある塊を塊と認識して、以前の記憶を参照して

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/16
    文字を映像で記憶するというやりかた。自分の場合映像でイメージ化はできてもディテールを遡ろうと思うと文字情報に頼ってしまうことが多いかもしれない。
  • 牛蒡 見えないものをみるということ

    見えないものは存在しないものだ。というわけではない。見えなくても存在しているものはある。それをどうやって感知するか? 見えないけれどみたいもの。 見えないしみようとも思わないもの。 見えないし見ようと思いもよらないけれども実はとても重要な意味を持っているもの。 さて、それをもしさまざまな苦労の末に取り出すことができる能力を持っているとしたらどうする?その能力はないけれども、できるかもしれないという希望を持っていたらどうする?多分そういうことだろうなぁとは思う。

    hatayasan
    hatayasan 2008/01/10
    「その能力はないけれども、できるかもしれないという希望を持っていたらどうする?多分そういうことだろうなぁとは思う。」
  • 牛蒡 頭がいい・能力がある について

    気になるので。 http://twitter.com/sivad/statuses/516279452 東大的に賢い人はそもそもブログとかはてななんてやる動機も必要もないんではないかなぁ。 http://twitter.com/sivad/statuses/516293722 だって彼彼女らは日の中枢に通じるチャネルをいくつも持ってるのに、ブログしこしこ書いてもしかたあんめ。 まず「東大的に」といういみがわからない 情報処理能力という意味では一定ラインで切っているので,ある一定時間一定量以上の情報を一定以上の正確さで処理をするということに関しては一定以上の水準を保って入るだろうとは思う。だが,それだけである。それを頭のよさという風に呼ぶ場合もあるだろうが,その限りではない。少なくとも保障されているのはそういう情報処理能力であって,それ以上でもそれ以下でもない。それは賢さなのか,といわれる

    hatayasan
    hatayasan 2007/12/21
    「能力に恵まれた人間は自分の専門分野もさることながらさらに異分野についても興味/インプット,そしてアウトプットさらには自分の領域内との比較から思考…そういう欲求/それが賢さである。」
  • 牛蒡 好きなこと、について

    を忘れてやりたいことがある。あるいは寝たりべたりしている間にもずっと考えてしまうことがあるというべきか。そういうこと、そういうものに出会えることがある。 それは楽しい。実に楽しい。夢中になりのめり込み、かなりの無理を重ねてそれに向き合いつづける。かなりの無理を重ねていることもかなりの時間を費やしていることにも気付かない。ただそれのことばかり考えている。それが楽しいから、どれだけ眺めていても飽きない。 たまにそういうものに出会う。たとえばそれが歌のときもある。ずっとききつづける。一週間その曲だけリピートして聞いている。それでも飽きない。三週間くらいその状態が続く。常にその曲が流れている状態になれ、ふと違うものがほしくなる。音楽を止めてみる。そうすると、なぜかそのメロディが恋しくなる。またききはじめる。何度聞いても新しい発見がありたまに場所を変えてみたり、ヘッドフォンを変えてみたりするこ

    hatayasan
    hatayasan 2007/12/11
    「長いこと好きなことを続けていくためには、…のめりこみすぎない。これが一番難しい。恐らくは。」嫌いになっても戻ってきてしまう、どうしようもない気持ち、というやつ。
  • 牛蒡 性欲について

    まー僕は性欲というのがなんなのかいまいちよくわからんのであれなんだが(Aセクではないと思うが)、ちょっといろいろと考えたのでめもっとこうと思う。 性欲を忌避する・嫌悪する=男が滅びればいいというのを男性が口にすることがよくあってそのたびにわからない。じゃぁおまえらは性欲=男性と思ってるのかと。違うだろと。あるいは性欲⊇男性と思ってんのかと。違うだろと。 なんというかあれなんだよなぁ。別に嫌悪しなくてもえぇやんという言い方をする人もいて、おまえはどっから生まれてきたんだ!性欲の果てに生まれたんだろ!というひともいてそれはそれでありだなぁと僕は思う。けど、一方ですっげー忌避したり嫌悪したりそういうのもまぁありだなぁと思う。どっちも別におかしいことではないだろうっていう。だってうんこ汚いじゃんね。それはおまえがったもんで体が吸収したあとのものなんだから汚くないだろ嫌悪すんな!っていわれてもえぇ

    hatayasan
    hatayasan 2007/12/08
    「だってうんこ汚いじゃんね。それはおまえが食ったもんで体が吸収したあとのものなんだから汚くないだろ嫌悪すんな!っていわれてもえぇぇって感じ」
  • 牛蒡 伝えられる自信がない

    hatayasan
    hatayasan 2007/12/07
    「あ、やっぱちがったと戻ったり、いややっぱりよかったとまた戻ったり、そういう仮定を目の前ですると相手にとってみれば迷惑なことこの上ない。…わかってる、わかってるんだけど。どれが大事かわからないんだ。」
  • 牛蒡 当事者同士の話にはあまり絡みたくない

    ということをちょこちょこと思った。たとえばその状況というのが倫理的観点から鑑みて間違っているとしても、それが当人同士の間でよしとして共有されていてかつ自分に何もないのであればどうでもいいことだと私はおもう。私にとってはどうでもいい、という風には思う。そのよし、としている関係が無言のうちに私のほうまで広がってきて、そうであるべきといわれない限りは私は何も言わないしなにも関わらない。ただつらそうにしてたらそうじゃなくてもいいんじゃないかなとは言うかもしれない。 だけど、そのひとのかわりにおまえが間違ってるそれは悪いという風に言ったりはしないよ。関係ないところで自分が当事者であるかのようにかたったりはしないよ。理由はいくつかあるけど、そもそも私はそんなに頭がよくないから自分に関係ないことまではよくわからない。その人がよし、としているのであれば、それでいいというのであればどうしようもないと思ってい

    hatayasan
    hatayasan 2007/12/02
    「まわりがなにをいっても関係ないのであれば、それは届かないし、受け取ろうとも思わないだろう。私は受け取りたいと思わないと思う。全く関係ないところにいる人の言葉は。」