ekken?
会社入ってすぐの頃、仲の良い8人で同報メール(CC)でいつも情報交換をしていた時期がある。そのメール上で、一度だけ私と友人でささいなことをきっかけにけんかをしてしまったことがある。もうどんな理由でモメたかも覚えてないけれど、私のささいな言葉の使い違いが友人の気に障ったらしく怒らせてしまった。悪いと思ってごめんなさいとすぐに謝ったけれど、相手との誤解は深まるばかり。 そんな状態で数時間ずっとメールの往復をしていたけれど、その間、同報メールのままケンカを続けていた。多分、これがいけなかったんだと思って、途中から1対1でメール交換することにしたら、次第におさまり、その後は元通りに仲良く遊ぶようになった。 もしかしたら何回もやりとりすることで許してもらえたのかもしれないけれど、私は1対1だったから許してもらえたんだと思ってる。他に見る人がいるってことは、どうも言葉の方向が相手だけでなく、その他の人
また、「実名ブログ」に復帰したが、実名をさらしたからといってリアルの生活をネットに持ち込むのかと言えば、それはまた別の話だ。素の僕のことを知っている人ならご承知のように、ここで書いていることは僕のリアルな社会生活とはほとんど切れている。意志的に切っているというのが正しい言い方になるだろう。 だから、『雪泥狼爪』というお洒落なタイトルのブログを主宰するyukioinoさんが次のように言うとき、実名を公開しないというスタイルを貫くyukioinoさんと、実名で書いている僕とは、境界をはさんで対峙しているわけではなく、実は境界の同じ側にいるという感覚を強く持つことになる。 自分がプロフィール欄に実名や仕事について書くどころか、「なにものでもない」と記しているのはネットとリアルを遮断しているからだ。仕事から離れている今、ここに書くのは社会的に無益な個人的趣味だけだ。 (『雪泥狼爪』2008年5月8
いま大阪の実家にいます。母の具合が悪くなり、今回はそのための帰阪です。ゴールデンウィーク中ということもあって、仕事関係の諸々を最小限に抑えられたのは、ちょっと助かったなあという感じです。ゴールデンウィークは恒例の春一番コンサートを見に行くことにしているのですが、今回は見合わせることにしました。私としては、私の広告の師匠でもあるBRUCE06さんのレポートを楽しみに待とうという感じです。BRUCE06さん、コンサートのレポートよろしくお願いしますね。 母のことをブログに書いていいのかどうかはよくわからないところがあって、いろいろ考えて、今のところは、やはり書かないほうがいいのかな、なんて思っていますので、すこしわかりにくい文章になってしまうかもしれません。ごめんなさい。 母の具合が悪くなって、私自身、思うところがあったので、それを書きたいと思います。私は、ここのところ、ずっと家事やら母の対応
ブログmixi日記やブログで「コメント」「トラックバック」「はてスタ」「はてブ」「web拍手」などの反響が欲しいよという人にお勧めの方法があります。誰でも出来て、簡単。器量も技術もいらない。僕も気がつかないうちにやっていました。 それはずばり、されたいことを人にするです。コメントして欲しかったら人にコメントすればいいし、言及されたかったら言及すればいい。はてなブックマークが欲しいなら、自分も人にはてなブックマークすればいいんです。 誤解しないで欲しいのですが、いわゆる「コメント返し」を狙えという訳じゃないです。アクセスが欲しいからコメントをするなんてのは、botのお仕事です。そんな不毛なことは薦めないです。「共感したのでコメントしました。よければ私のブログも見てくださいね^^ そしてコメントもくれると嬉しいです><」なんてコメントをするのは、嫌われたい人だけにしましょう。 そうじゃなくて、
なんでコメントよりブックマークとかトラックバック使うのを好むんだろう。過去にも似たような話はあって、最近のだと コメントが全然つかない・・・。 こんなのだろうか。わざわざブログ主に大きな声で言いたいわけでもないけど、文章に書き起こしておきたい、という場合が多いのかな。(はてなダイアリーユーザーってなんでコメント欄使わないの?) このブクマ含めて見回すと、ひとつの仮説が浮かび上がる。初心者ユーザーにとっての「ネット世間」は、自分と作者(見ているコンテンツを書いた人)しかいない。だから、コミュニケーションを取ろうと思ったら、作者にしか目が向かない。なので直接コメント欄に書く。しかしはてなユーザーに代表されるネットリテラシーの高いユーザーはにとっては、「ネット世間」は作者以外にも、自分同様にブログを見ている人たち、同じくブクマを利用している人たちなどたくさんいて、その人たちと、元記事をネタにコミ
はてなダイアリーユーザーってなんでコメント欄使わないの? はてなでも、コメント付いてる所だってあるし、はてな以外でもコメントが少ないブログの方が多いと思う。はてなだからってことは無いのかなとは思うが、はてなのコメント欄は、メールアドレスもURL記入欄も無いのではてなユーザー以外は使いづらいのがはてなが他とは違って異様に見える部分かもしれない。 また、[NS] 尋常じゃない量のコメントが付いたので、特定の記事のコメントを禁止にしました。 のようにブログ主の関係ないところでコメント欄でコミュニティができるケースもあるようだ。ここまで来ると、ブログと全然関係ないので嬉しいような悲しいような。 コメントが多いブログといっても、実は「あいさつ文化圏」のコメントだったりする。コミュニケーションと言う点では有意義だけど、自身の意見を切磋琢磨するという意味では全然。コメントが全然つかない・・・。 と嘆いて
なんでコメントよりブックマークとかトラックバック使うのを好むんだろう。 過去にも似たような話はあって、最近のだと コメントが全然つかない・・・。 こんなのだろうか。 わざわざブログ主に大きな声で言いたいわけでもないけど、文章に書き起こしておきたい、という場合が多いのかな。 はてな以外だと全く逆なんだよね。他のサービスだと、「トラックバックって何それおいしいの?」って人の方が多い。 たぶんこれははてなーにネットのヘビーユーザー、IT関連で飯食ってる人、つまりパソコンをよく使う人が多いからだと思う。 ネットを初めて間もなかったりする人は、とにかくコメントをしたがる。一部の人には馴れ合いだとかチャット化だとかで嫌われるようなノリでね。 ネットをたくさんしている人は、コメントをするのが億劫なんじゃないかなと思う。池に投げ込んだ石のように波紋が広がっていく、というのは言いすぎだけど、コメントのやり取
「ぺんちゃん日記 - 50の壁を越えられないリア充ブロガーと越えるはてなー」を読んで。 リア充ブロガーとかはてなーとかは釣り文句なのでどうでもよくて、知り合いに向けて書いているか不特定多数に向けて書いてるかの違いが興味深かったので。 知り合い(身内)に対して何かを書くのか、それとも不特定多数に対して何かを書くのか。 知り合いに対して何かを書く場合はある意味普段の会話の延長上みたいな部分があって、だからこそ書かれたものに対してコメントを欲するのだろうし、書き逃げ禁止!みたいな文化が生まれるんでしょう。mixiは正にそんな感じだし、ブログでもSNSに近いYahooブログなどはこういう空気があります。 一方、不特定多数に対して何かを書くってスタイルの場合、その全てが大きなアクセスを生み出すわけではありませんが、大きなアクセスが生まれればそれなりの反応が返ってきます。ただ、知り合い同士のやりとりの
不肖・木走オヤジは、あんまりブログ論とか好んでするほうじゃないのですが、今日はちょっと考えさせられるエントリーを読んだので私見をまとめておきたくなりました。 興味深かったエントリーはこれ。 はてなブックマークが何故? http://minminsroom.cocolog-nifty.com/webdiary/2008/04/post_ea97.html このブログ主はココログを利用しているのでありますが、なぜかある日突然Bマークがついていてびっくり、そこからはてなのブクマの存在を知り、正直な感想を述べています。 はてなの愛好家には悪いが、私ははてなの仕組みが嫌いだ。はてなダイアリーでも、ごくごく普通のブログと同じように使っている分にはなにも思わないが、ブックマークとか、変な線がついちゃうのとか、なんとかマークとか色んな仕組みがあって、このあたりが好きになれない。 一番の違和感が、妙にブログ
はてなブックマーク、またはソーシャルブックマークがネガティブな感情を生み出してる、という問題なのかな。 私は、ネガティブな感情をそれらのツールが作り出しているわけではなく、単に可視化されているだけ、だと捉えているのだけれども。 ネットじゃなくて、例えばテレビを見てるときに、芸能人に向かって誰だって文句言ったりすると思うわけですよ。 「このニュースキャスターの人も年取ったなー」 とか 「現場の映像に切り替わったけれど、音声がつながってないじゃん、ちゃんとやれよ」 とか。 もし、その様子をこっそり録画して後から見返したりすると、きっと「テレビがネガティブな感情を生み出してる!」と思うはずです。 って、そんなわけないじゃん。 たぶん、大なり小なりネガティブな感情っていうのは頻繁に噴出しているわけで、それはよくあることなんじゃないかと。 で、これまでだったら自分の家でニュースキャスターに文句言って
そこそこアクセスはあるのにコメント一回もつかない。 スターやはてブはあるけど。 何故だ? これがはてな村? 他のブログサービスだったらコメントつくのかな・・・。 もしもコメントが欲しいなら、mixiが良いのではないでしょうか。 同じく。書く動機として、あるいはコミュニケーションを求める意味で「コメントが欲しい」というのなら、最初の増田さんが必要としているのはブログサービスではなくてSNSだと思う。 今や区別する意味なんてほとんど無いかもしれないけど、『ブログ』と『SNS』は本来全く違うものなので、「コメント」に関する価値観が伝統的に全然違う(この場合の「伝統」つーのは、期間にすればたかだか2、3年の話ではあるけれど)。ブログのコメントに関する話については、この辺の議論とか参考にして貰うといいんじゃないだろうか。 http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/200
そこそこアクセスはあるのにコメント一回もつかない。 スターやはてブはあるけど。 何故だ? これがはてな村? 他のブログサービスだったらコメントつくのかな・・・。
10年前と言えば、1997年。松田聖子さん、神田正輝さんが離婚し、消費税が5%になり、山一證券が破綻し、京都議定書が採択された年です。私は、30歳で、とある広告制作会社で百貨店の新聞広告コピーを書いていました。ブログが日本で定着するのは2002年頃とのことだから、世の中にはまだブログはありません。 Googleができて、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」が創刊されたのもこの年(参照)で、そこから思い起こすと、その頃、私はあまりウェブには親しんでいなかったのではないでしょうか。職場で見るくらいですね。個人のメールアドレスもまだ持っていなかったし、会社から支給されるメールアドレスも、それからすぐに移籍した会社からだったような気がします。ケータイも持っていませんでした。 記憶をたどっていくと、その頃の私は、今よりも、もっとギラギラしていたような気がします。英国の広告代理店であるSaatch &
はてなブックマーク - 闇鍋ブックマーク - 2008年04月03日 はてブのコメント欄は公の場とはある意味では言いがたいけれど、ブログのコメント欄より読んだ本音を書きやすい場所だと思う。 それはやっぱりあれかな。コメント欄に本音を書けないのは、相手とそれについての話し合いはしたくないってことかな。だけど、この記事を読んで感じた本音は消極的にでも知らせたい、または、この記事を読んだ自分の本音はこうなんだっていうのを、相手だけじゃなく周りにも知ってもらいたいってことなのかな。つーか、私はそうだよ。はてブにコメントつける理由はそれだよ。というか、昔はよく本音を相手のコメント欄に書いたものだったけれど、話し合いがしたくないから今は書くのをやめてしまったというより、コメント欄で話し合いをしたくないというのは記事を書いたほうがほとんどだったから、そういう書き込みはしてもらいたくないっていう人がどの人
昨日、ある知人に会ったら思いがけないプレゼントをもらい、そのうえに大いなる励ましの言葉を受け取った。プレゼントの方は文学的な素養が豊かで思いやりに溢れたこの人ならではのもので、このブログを読んで僕の読書傾向を知った彼が、二人の文筆家の、現在は作家自身の意向と諸般の事情によって一般には手に入らない作品を当時の文芸雑誌からコピーしてくれたものだ。予想もしていなかったことなので、彼の好意が春風のように身にしみる気がした。この人とは何となくウマが合うとは思っていたのだけれど、実はこのブログを知ってもらうまで、仕事の範疇を超えてコミュニケーションをとることはなかった。結果としてはブログの功徳と呼びたくなる、僕にとってのご褒美である。 さらにこの方が語ってくれたひとことも頂戴したコピー同様に有り難い贈り物だった。彼はこのブログについて「書き込みをしている方々とのやりとりを拝見していると、その方たちと中
今日、会社から帰ってPCを開いてブログを見ると、見慣れないマークがずらっとコメント、トラックバック欄のとなりにBマークがあった。なんだろうとクリックすると、はてなのブックマークだった。それが全ての項目についているのでびっくり! 自分は全く設定をいじっていないのに、こんなことはありうるのだろうか?何度も確認したり、はてなの仕組みを勉強したりで、なんだかんだで2時間ぐらいは時間を浪費してしまった。 はてなの愛好家には悪いが、私ははてなの仕組みが嫌いだ。はてなダイアリーでも、ごくごく普通のブログと同じように使っている分にはなにも思わないが、ブックマークとか、変な線がついちゃうのとか、なんとかマークとか色んな仕組みがあって、このあたりが好きになれない。 一番の違和感が、妙にブログ論とかネット論とか議論系が多い感じがする。勝手にそういうことを好きな人同士でやっている分には自分には危害?がないけど、勝
昨日の話と関係のあるようなないような話を続ける。 以前だったら考えられないことだけれど、インターネットのおかげで、会ったこともない、日常生活を送っているだけなら決して知ることもなかったであろう人とも、メールやコメント欄への書きこみを通じて、知り合うことができるようになった。 それは100パーセント、言葉だけのやりとりなのだが、不思議とその人の「てざわり」というか「声」というか、言葉にはならないのだが、何かしら伝わってくるものがある。 人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な
有り難いことに、昨日のエントリーにも一昨日に引き続き、再度Emmausさん(id:Emmuas)、勢川びきさん(id:segawabiki)からコメントを頂いた。お二人のコメントを拝見しながら、ブログを書くということについていくつかの考えをめぐらした。 一つは心構えについて。「人は自分にとって切実なことのみを書かねばならない」と言った文人が誰だったか忘れてしまったが、ブログにせよそうした心構えとまったく無縁のところで言葉を垂れ流していてはいけないのではないかということ。いけないと書くのは語弊があるとすれば、真摯な文章にはそれに見合う反応を持って迎えられる可能性が広がっているのではないかということ。そういう意味では、一昨日のエントリーは一方に転べば見向きもされなくなるような、きわどい文章だったと思う。 二番目に、そうした表現を可能にする書く技術について。たぶん、僕の思い過ごしでは決してないだ
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