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2009年6月11日のブックマーク (7件)

  • ある困難について - 素通りできなかった時のために

    ■沈黙していることと「気で思うことは出来ない」と公言すること 思う事と言う事が直結している、なんて馬鹿げた事は、たとえば幼児でなければ、そんな事はありえない。というか、思うことをそのまま言わない事によってしか、われわれは生きられない。 日常生活をちょっと想起すれば分かることで、お前さんは、思ったことを全て口にして生活しているのか、と問えばいい。そして、言うまでもなく、日常生活もまた政治である。 ほんとうに感謝していなければ「ありがとう」と言えないというのは、幼児が良く陥る陥穽で、親戚のおばさんなんかに欲しくもないおもちゃを買ってこられて、ありがたく無いからありがとうが言えずその事で叱られ号泣したりする。 それも大人になれば、朝も早くから会いましたねという気持ちがなくても「おはよう」と、疲れていませんか大変ですねという気持ちがなくても「お疲れ様です」と言うことになる。ときに、当然言うべきと

    ある困難について - 素通りできなかった時のために
    hokusyu
    hokusyu 2009/06/11
    被害者意識の強さについては強く感じる。/この場合、レイプゲームに反対する人たちも純粋な被害者ではないといいうのがポイントなんだけど(パレスチナひとは壊れやすい卵なんかじゃないという意味で)
  • いわゆる「凌辱ゲーム」規制問題についてに備忘録

    いわゆる「凌辱ゲーム」規制問題についてに備忘録★公理の設定・男女とも人権は等しく尊重されるべきである。(性差による差別・虐待はあってはならない。)・「表現の自由」は守られねばならない。(有害危険でない限り「表現の自由」は規制されるべきではない。)・現実において犯罪・性犯罪はしてはならない。(これは規制派・擁護派双方がともに深く同意している筈である。) ■発端(?)日製「性暴力ゲーム」欧米で販売中止、人権団体が抗議活動 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)「少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。日での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日では今でも

  • 同性愛嫌悪や同性愛者へのヘイトクライムの実例が否認・反発されてしまうのは、「正常化の偏見」「認知的不協和」のせいなんじゃないだろうか - みやきち日記

    1. 同性愛嫌悪やヘイトクライムへの否認・反発 この日記に「LGBTニュース」というカテゴリを作って以来実感しているのが、どれだけ「このようなホモフォビックな事件がありました」「こんなヘイトクライムがありました」という実例を挙げても、 「たいしたことない」 「日は大丈夫」 「大げさに騒ぎすぎ」 「そんなのは特殊な例、一般化するな」 という反応が(時には怒りさえともなって)返ってくる、ということです。何故なんだろう、と常々考えていたのですが、これは、防災研究家の片田敏孝群馬大学教授の言われる「正常化の偏見」「認知的不協和」という概念で説明がつくような気がします。 2. 「正常化の偏見」とは 以下、片田敏孝教授の講演内容がまとめられている「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる「正常化の偏見」:ITproより引用。 「自分にとって都合の悪い情報を無視したり,過小評価してしまう人の特性」

    同性愛嫌悪や同性愛者へのヘイトクライムの実例が否認・反発されてしまうのは、「正常化の偏見」「認知的不協和」のせいなんじゃないだろうか - みやきち日記
  • 「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog

    まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し

    「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog
    hokusyu
    hokusyu 2009/06/11
    id:WinterMute 「とりあえずは」といいました。線引きが難しいからといってたとえばレイプシミュレータが特に陵辱行為がないポルノと同レベルという話にはならない。/どこに線を引くのかも含めて応答だということ。
  • 「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    昨日の記事に付け加えることはあまりないのだけど、「読み解く」のは難しいのでしょう。同じ事を別様に言うというのは嫌いじゃないので、書いておく。 僕は「愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし」の述べているのだが、重要なのは前半の条件節の方。脚注でも述べているように、ここまでラディカル・フェミニズムをなぞって論を立てても、規制に100%賛成するわけではないのだ。僕は、どちらかと言えば、原則論的な「言論の自由」信奉者だ。規制には「最大限」反対。100%ではないけどね。 性も、性暴力も、暴力も、差別も、殺人も、その他どんなものであれ、表現の対象にしうる。表現したらいい。表現の内容は問題にしうる。問題にしたらいい。表現も、表現を問題にする言説も、原則としては、言論の自由という土俵の上で互いにぶつかり合うことができ、それを通じて、私たちの認識は磨かれる。それでこそ「言論の自由市場

    「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    hokusyu
    hokusyu 2009/06/11
    agonismの場としての「言論の自由」
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    hokusyu
    hokusyu 2009/06/11
    「差別もある明るい社会」@ゴチエイですねわかります。
  • 「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があのに冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ

    「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。