もはや死語となったが、かつて「同情するなら金をくれ」という流行語があった。これは簡単に言って「カネを出さないおまえに同情なんかされたくねえよ」という非常に甘えきった、拗ねた物言いなんだが、この語と前後してはやった「反対するなら代案を出せ」にもまた同様の腐臭を感じざるを得ない。 「反対するなら代案を出せ」というイデオロギーは、1992年のPKO法案のときに言われはじめたように記憶している。 PKO反対派は《「国連の下での和平」に日本が自衛隊で介入する》という枠組み自体に反対していたのに、代案を強要されることによって、安保理で作られた既存のカンボジア和平の土俵にまんまとのせられた。のせられたのは、これまで平和運動をひっぱっていた社会党(当時)・共産党で、彼らはズブズブと「国連の下での和平」を認めることとなった。「国連中心主義」とかと言い訳しながら、ね。(その結果、映画『ブラックホーク・ダウン』
何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。*1 「対案を出せ」論法批判 批判は、あくまでも問題の所在を示す。その解決が可能かどうかは分からない。大抵、示せない。しかし、それが問題であるならば、明らかに問題なのだ。たとえば、必ずしも死ななければならない理由がないのに、人が死ななければならなくなっているとき、それは問題だ。そのような状況は、「あってはならない」こととして認識されなければならない。そのようなことが「現実に起こらない」ために、何かをしなければならない。私たちは現にある現実を、そのどこかを、変更しなけ
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