
アメリカ『LIFE』誌が1998年に発表した「この1000年で最も重要な功績を残した人物100人」に、日本人で唯一選ばれた葛飾北斎(かつしかほくさい 1760~1849年)。あらゆる画題を精力的に描き、国内外のアーティストに刺激を与えた北斎の真骨頂のひとつが、『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』などの風景画。目にした景色をそのまま描くのではなく、1点にフォーカスしたり、構図を変えたりして、より魅力的な風景画として仕上げました。〝北斎の絶景画〟と今も残る〝リアル絶景〟の共演! その第一弾は神奈川県の湘南「七里ガ浜」を見比べます。 江戸時代も現代も、北斎の名画をガイドにして旅に出よう! 風景版画で名を馳せた浮世絵師といえば、東海道五十三次や江戸名所シリーズをヒットさせた歌川広重(うたがわひろしげ)、そして葛飾北斎です。 江戸中期のスター絵師ふたりの木版画は「作品」ではなく「商品」。 江戸に暮らす人
1章 夢二が好んだ味と店(言問団子 長命寺桜もち ほか) 2章 夢二と老舗(菊寿堂いせ辰 文房堂 ほか) 3章 夢二ゆかりの東京の街(浅草周辺 向島周辺 ほか) 4章 夢二が愛した東京(大正時代の東京と交通事情 東京郊外めぐり ほか) 令和の時が刻まれる今、漫画、アニメ、小説、音楽シーンなどで大正時代や大正ロマンが注目され、特に若い世代を中心に、大正へ寄せる関心の高まっています。今からちょうど100年前は大正時代(1912-1926)に当たりますが、この時期に和洋折衷の文化や風俗をいち早く発信した東京は、竹久夢二が上京し、引越を繰り返しながら長く暮らした土地でした。日々めまぐるしく変貌を遂げつつも、東京にはレトロな趣に包まれた、夢二ゆかりのスポットが現在も点在します。本書は夢二を通じて、大正の古き良き時代に思いを巡らせながら、令和の東京を新たな角度から楽しむことを目的に、散歩に役立つ情報を
僕の仕事 何が正しい位置なのか。 正しい位置を探すこと。 探すことに戻ること。 多分そのことが仕事をする上でいちばん大事なことに思える。 1970年頃だったと思う、どうやったら石の存在を絵という平面に移すことができるのか僕は苦しんでいた。壁に立て掛けたかなり大きな白い画面と石の前に座って、その石の存在に対応する一つの点を鉛筆で画面の中に点をつけて探していた。その一点を探すことだけがその頃の僕の仕事であった。ある時には2〜3cm右にまたは左に動かして。自分にとって正しいと思う大きな石に対応する点の位置を探していた。そして別の日にその一点を通った垂直線を引く。僕にとってそれはその石の存在と石を取り囲んでいる空気と空間を表現できる手がかりのように思われた。そうして出来た4枚の作品はワルシャワのフォクサル・ギャラリーに展示され、僕はその作品に『二つの極』という名をつけた。 4枚の作品はギャラリーの
上村 松園(うえむら しょうえん、1875年〈明治8年〉4月23日 - 1949年〈昭和24年〉8月27日)は、日本画家。気品あふれる美人画を得意とした。1948年に女性として初めての文化勲章を受章。息子に日本画家の上村松篁[1]。 京都に生まれ育ち、本名は上村 津禰(うえむら つね、「禰」は「示」偏に「爾」)、常子(つねこ)と名乗っていたこともある。 1875年(明治8年)、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる[2][3]。1887年(明治20年)、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、北宋担当の鈴木松年に師事[2]。1888年(明治21年)、雅号として「松園」を用いる[2]。鈴木松年の辞職により京都府画学校を退学し、松年塾に入る[3]。1890年(明治23年)、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint、1862年10月26日 - 1944年10月21日)は、スウェーデンの画家、神秘主義者。彼女の絵は最初期の抽象絵画の一つとされ、カンディンスキーやモンドリアンの絵を想わせるが、彼らに先行し、死後20年は作品を公開しないよう言い残し、長い間知られてこなかった[1]。「5人(de fem)」というグループに属し、図形にも似たその絵は複雑な哲学的思考を描写したものである。 スウェーデン海軍士官ヴィクトル・アフ・クリントと妻マチルダの第4子として生まれる。裕福な家庭で、夏には一家はメーラレン湖に浮かぶアデルソ島(Adelsö)にあったハンモラ農場で過ごした。この牧歌的な環境で幼少期のヒルマは自然とふれあい、その深い交流は創作活動のインスピレーションとなった。父からは数学に対する興味を受け継いだ。 1880年に妹のヘルミナが死去し、宗教的な面での
タカラベルモントのブースのスタッフユニホームデザインを発表するデザイナーのコシノジュンコ氏(中央)=7日午前、大阪市中央区(鳥越瑞絵撮影) 4月13日に開幕する2025年大阪・関西万博に出展する理美容機器メーカーのタカラベルモントは7日、デザイナーのコシノジュンコさんが手掛けた展示スタッフのユニホームを大阪市内で披露した。コシノさんは、1970年大阪万博でも同社のパビリオンのユニホームを担当した。 大阪・関西万博の「大阪ヘルスケアパビリオンに」に出展するタカラベルモント。コシノジュンコさんデザインのスタッフユニホームを着用する同社社員でホッケー選手の及川栞さん(左から3人目)ら=7日午前、大阪市中央区(鳥越瑞絵撮影)同社は、大阪府市と経済界による地元館「大阪ヘルスケアパビリオン」内に、美容と医療が融合した未来のヘルスケアサロンをテーマにしたブースを出展する。ユニホームはブースのデザインと合
東京・六本木の21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3では、20世紀イタリアのモダニズムを代表する建築家 ジオ・ポンティ(1891-1979)にフォーカスした展覧会「ジオ・ポンティの眼:軽やかに越境せよ。」が2025年3⽉19⽇(⽔)から3月31⽇(⽉)まで開催される。 1960年にミラノに竣工した「ピレリ高層ビル」 ©Gio Ponti Archives – Archivio Storico Eredi Gio Ponti アームチェア「D.154.2」(1953-57 Molteni&C Heritage Collection) Photo by Frederik Vercruysse 1本のスプーンから、薄さや軽やかさを追求した超軽量の椅⼦「スーパーレジェーラ」(1957)、さらには「ピレリ⾼層ビル」(1960年竣⼯)まで、多彩なスケールのデザインを手がけてきたポンティ。近年
プレーヤーの視点に立ってものを作る。その立ち方にセンスが表れる 「たべっ子どうぶつ」のデフォルメセンスは秀逸だ。そう語るのは、グラフィックデザイナーの小林一毅さん。〈ミズノ〉との協業や、玩具をテーマにした巡回展『Play Time』など、人の五感や身体と地続きの形を追求し続けている。 「形だけでは何の動物かわかりづらいものも実は多い。でもだからこそ、子供が見たときに“何の形だろう、クマっぽい?”と想像をふくらませる入口になるんです。解像度の高さが求められる現代ですが、この絶妙に解像度の低いデフォルメが、想像力を育ててくれる。知育玩具の要素もあって、ビジネス的にも上手だと思います」 使う人の方を向いて作られたもの、すなわちプレーヤー視点に立っているものにセンスを感じると小林さんは言う。例えば毎日のように使うスケッチブック。 「〈月光荘〉のオリジナルは表紙が6色あり、紙厚やサイズの種類も多い。
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