1958年東京生まれの坪内祐三は、優れた書評家であり、類い稀な感性と博覧強記の作家でした。1997年の処女作「ストリートワイズ」に驚き、今までにない視点で靖国神社を捉えた「靖国」に圧倒されて以来、新刊が出れば買っていました。が、2020年心不全で亡くなりました。享年61歳。 彼の死後、妻の佐久間文子が書いた「ツボちゃんの話」(新潮社/古書1000円)は、25年間の坪内祐三との暮らしを振り返ったものです。佐久間は1964年大阪生まれで、朝日新聞に入社し、文芸畑を歩いてきました。冷静な視点で、坪内と共に生きた作家と、その時代の断片を生き生きと描いています。 「広津和郎の、『みだりに悲観もせず、楽観もせず』という一節がツボちゃんは好きで、たまに口にすることがあった。『どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神』を、広津は『散文精神』と名づけ
ノンフィクション作家の梯久美子の作品については、何度かブログで書いたことがあります。今回ご紹介するのは「この父ありて」(文藝春秋/新刊1980円)です。 登場するのは、茨木のり子、石牟礼道子、島尾ミホ、辺見じゅん、石垣りん、萩原葉子など9人の女性作家とその父親です。父娘の関係をセンセーショナルに陥ることなく、客観的な視線で見つめた傑作だと思いました。まぁ、いくら客観的に描こうとしても、萩原朔太郎と葉子の親子、あるいは島尾敏雄・ミホ夫婦の凄まじい関係は、よく知られていることであり、まるでドラマを見ているようではありますが。 最初に登場する二人は知りませんでした。のちに修道女になった渡辺和子と父、錠太郎。二人目は歌人の齊藤史と父、瀏です。二人の父親は軍人で「2.26事件」に関係しています。錠太郎は青年将校に射殺され、一方の瀏は、反乱軍幇助の罪で禁固刑を言い渡されます。当時の絶対的な家父長制の家
著者は京都府立大学文学部准教授。ドイツ文学の専門家です。彼がヨーロッパ、アジアを巡った時の印象を綴ったのが本書「イスタンブールで青に溺れる」(古書/1400円)なのですが、普通の旅とは違うのです。 「四十歳になった年、発達障害の診断を受けた。診断を受けなければ、人生の最後の瞬間まで『ああ横道誠さん?ちょっと変わった人でしたよね』というあたりで終わったかもしれないのに、診断を受けて障害の当事者だということがはっきりし、困惑がないと言えば嘘になる。」とあとがきに書いています。 ASD(自閉スペクトラム症)と ADHD(注意欠如・多動症)とを併発した文学研究者が、一人で世界を旅して、何を見て、何を考えたかを記録したものなのです。 「ウィーンで僕は、毎日のように屋台のシュニッツェルを食べた。」シュニッツェルは、牛カツ、豚カツ、鶏カツのことです。それを「すっかり飽きてしまうまで、毎日できるだけ同じも
「闇で味わう日本文学 失われた闇と月を求めて」(笠間書院/新刊1870円)の著者中野純のプロフィールには「体験作家、闇歩きガイド」とあります。ナイトハイクのインストラクターで、夫婦で少女漫画の専門図書館「少女まんが館」を運営しています。純然たる文学専門家ではないせいか、一見難しく見える古典文学がぐっと身近に感じることができる一冊になっています。 「源氏物語」「今昔物語」「竹取物語」「雪女」「舞姫」といった日本文学の古典の名著から、野口雨情「雨降りお月さん」や加藤まさお「月の砂漠」などの童謡まで幅広くチョイスして、日本の夜を包み込む柔らかい闇、柔らかい月の情景、または憧憬を探り出し、さらに物語の場所に出向き、優しい闇や恐ろしい闇を体験します。 闇と同時に、日本人ほど月を愛してきた人種はいないと著者は言います。現代は中秋の名月、つまり秋の澄んだ空に輝くまん丸い月を好む人が一番多いのですが、古典
大阪出身で京都大学卒業の作家、万城目学には関西を舞台にした小説が何点かあります。京都が舞台の「鴨川ホルモー」、奈良が舞台の「鹿男あおによし」、大阪が舞台の「プリンセス・トヨトミ」など奇想天外な物語ながら小説を読む醍醐味に溢れた作品が多く、私の好きな作家の一人です。 今年、十数年ぶりにエッセイ集「万感のおもい」(夏葉社/新刊1760円)が出ました。その中に「京都へのおもい」と題した章があります。2017年に京都新聞に掲載された三点を含めたものですが、京都の夏の大文字送り火について書いています。これが名文です。 「大学に通うべく京都で下宿していた五年間のうち、送り火を見たのは二度だったけれど、あの肌を不快に押し包む夜の湿気、大文字山の斜面におぼろに浮かぶ炎の等間隔、火が消えると同時に訪れる寂蓼の気配、さらに給水タンクにおそるおそる立つ感覚は、今もって忘れられない。」 ん?給水タンク?? 「そう
なんて素敵なタイトルなんでしょうか! 川内有緒が散骨をテーマにした「晴れたら空に骨をまいて」(ポプラ社/古書1050円)。皆さんはどうお考えでしょうか。死んだ後、お墓に入りたいですか?それとも一部だけでも好きだった場所に散骨して欲しいですか? 私は散骨派です。 本書には、親しい友人や家族を見送った五組の人々が登場します。この人たちの共通点は、世界のどこかに遺骨を撒いたという一点です。 著者の母親の友人の畠中さん。旅行好きで世界を飛び回っていた夫を亡くし、「土の中に入れてしまうのは可哀そうじゃない?あれだけ旅が好きな人だったんだもの。」と散骨を決意します。 「『自分らしく生きる』という言葉が叫ばれるようになって久しいが、その人生には必ず『死』という終わりがある。そこで彼女は、さらにその人らしく自由な形式で見送ってあげようと考えたのだ。そうすれば、戸籍上は終わってしまった人生でも、穏やかに故人
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く