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ブックマーク / number.bunshun.jp (120)

  • ガンバで発展途上の食野がマンCへ。Jを揺るがす黒船の資金力と情報網。(下薗昌記)

    まだ「期待の若手」クラスだった野亮太郎すら徹底的に把握する。マンCの世界戦略はJリーグにも影響を及ぼしている。 世代別代表の経験もなければ、ガンバ大阪でまだ定位置を取りきってもいない21歳にとって、8月最初の1週間はあまりにも激動の日々だった。 2日のヴィッセル神戸戦で試合終盤にピッチに送り出されると、その2日後に立っていたのはアウェイのJ3リーグ、ヴァンラーレ八戸戦のダイハツスタジアム。2種登録のユース組4人とともにスタメンに名を連ねた野(めしの)亮太郎を待っていたのは、世界屈指のビッグクラブからの誘いだった。 「Nice to meet you」 決まり文句で挨拶する野に、「Welcome to Manchester City」と返したのはペップ・グアルディオラである。ヴァンラーレ八戸相手にフル出場したわずか数日後、野はマンチェスター・シティの一員になっていた。 シティかぁ……

    ガンバで発展途上の食野がマンCへ。Jを揺るがす黒船の資金力と情報網。(下薗昌記)
  • 日本ハムが3年連続“三つ星”評価。同志に寄り添う「客セン」の対応術。(高山通史)

    ハムのお客様センターは国内プロスポーツ球団では3年前に初めて、電話応対サービスに関する格付け調査で三つ星を獲得した。 北海道ハムファイターズには「お客様センター」という部署がある。主にファンの方々からの電話を受け、メールでの問い合わせ等に対応するのが業務である。 直近では、多い日で1日に約400件、電話とメールでのコンタクトがあったという。それを、主に「コミュニケーター」と呼ばれる職員が対応する。野球に例えれば選手、プレーヤーにあたるのは6人。ファイターズは、すべて女性職員である。時に、上長の男性が対応するケースもあるが、歴戦の女性職員たちが常に先頭に立つ。 温かい言葉、辛らつな言葉。 8月17日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で、シーズン佳境での痛恨の9連敗がストップした。その間は、もちろんファンの方々からの嘆き、怒りの電話やメールが増える。逆に好調であれば、不調時

    日本ハムが3年連続“三つ星”評価。同志に寄り添う「客セン」の対応術。(高山通史)
  • 浦和とガンバ、2000年代の黄金期。“優勝決定戦”を経てのACL王者。(飯尾篤史)

    「令和」の世の中で、Jリーグは相変わらず熱戦の連続である。ただ時代は変わっても「平成」の語り継ぎたい伝説も数多い。そんな記憶に残る名勝負を北條聡氏と飯尾篤史氏の2人に回顧してもらった。今回は2006年J1最終節、浦和レッズvs.ガンバ大阪だ。 好対照だったのは、チームカラーだけではない。 田中マルクス闘莉王、坪井慶介、鈴木啓太といった代表戦士が後ろを固め、ワシントンやポンテら強烈な個の力で相手をねじ伏せる浦和レッズと、遠藤保仁、二川孝広、橋英郎、明神智和といった中盤の名手たちが華麗なハーモニーを奏でるガンバ大阪。対照的なスタイルも、両者のライバル関係を味わい深いものにしていた。 2006年12月2日のJ1最終節。Jリーグ記録を更新する6万2241人が詰めかけた埼玉スタジアムは、わずか一角の青黒を除き、真っ赤に埋め尽くされていた。 前節、リーグ初優勝に王手をかけていた浦和がFC東京と引き分

    浦和とガンバ、2000年代の黄金期。“優勝決定戦”を経てのACL王者。(飯尾篤史)
  • ポルトCL制覇の立役者デコが語る、モウリーニョの狂気と今季の可能性。(沢田啓明)

    「今はポルトに住み、選手の代理人をしている。主にブラジル人選手を欧州クラブへ紹介し、ブラジルと欧州各国を飛び回る毎日だ。(生まれ故郷の)ブラジルではなくポルトに住む理由? FCポルトは僕の心のクラブで、ここは第二の故郷。日常的にポルトの試合を見て、クラブ関係者とも交流し、大好きなフットボールに関わる仕事をする。毎日がとても充実しているよ」 電話の向こうの声は、弾んでいた。当初、ブラジル国内でのインタビューを申し込んだが、当分、帰国しないとリオ在住の弟から聞かされ、電話インタビューに切り替えた。デコに聞きたいテーマは、チャンピオンズリーグを制したかつてのポルトと、まもなく準々決勝を戦う今季のポルトだ。 「今季のチームは、欧州CLの大舞台で試合を重ねる度に成長している。準々決勝はとても厳しい試合になるだろうが、大胆かつ細心の注意を払って戦えば、きっと勝てる」 モウリーニョの言葉には根拠がある。

    ポルトCL制覇の立役者デコが語る、モウリーニョの狂気と今季の可能性。(沢田啓明)
  • 湘南のロッカールーム映像がすごい。怒鳴り合いでもカメラを止めるな!(杉園昌之)

    今シーズンのリーグ戦が開幕し、少し経った頃のこと。湘南ベルマーレに鹿島アントラーズのある選手から注文の連絡が入った。 「(2018年の)イヤーDVDを買いたいのですが、まだ在庫ありますか?」 メッセージの主は永木亮太だ。'10年から'15年まで湘南に在籍し、かつては自らもシリーズ作品に出演していた1人。'18年シーズンを振り返るドキュメンタリー『NONSTOP FOOTBALLの真実 第5章』の噂を聞きつけ、旧知のスタッフへ連絡してきたという。 「すごいらしいですね」 どうやら、いまJリーガーの間でも話題になっているようだ。 声を荒げる選手、ギリギリの映像。 DVDには試合のハイライト、選手のインタビューだけでなく、ありのままのロッカールームの映像が収録されている。いまの時代、舞台裏にカメラが入ること自体は特別に珍しくないかもしれない。ただ、その中身はハードワークが代名詞となっている湘南の

    湘南のロッカールーム映像がすごい。怒鳴り合いでもカメラを止めるな!(杉園昌之)
  • イチロー引退会見で読み取れた、番記者たちの“地獄”と信頼関係。(プチ鹿島)

    記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したという。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返る。 《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日) それから3年後に初めて単独インタビュー。イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知る小林記者。 後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったという。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」。 「僕に鍛えられたんだから……」 同じ紙面には「'94年~'97年までオリックス担当」の記者が、 《記者泣かせの選手だった。》 《想定通りにやりとりが進んだことなんてなかった。》 《「学級新聞じゃないんだから」。時に叱られ、呆れられ

    イチロー引退会見で読み取れた、番記者たちの“地獄”と信頼関係。(プチ鹿島)
  • 顔が見えないSNSとの向き合い方。日本ハム・広報が抱える葛藤。(高山通史)

    面と向き合うことが難しいが、確かに存在を感じている。活字などを通して、確かな息遣いも感じている。ただ、対象となる「相手」はスクリーンにはいるが、目の前にはいない。 時折、強いリアクションがあるケースがある。きっと向き合ったことがない方々ばかりである。 広報として思い悩み、明確な答えを出すことができずにいる1つの事案がある。インターネットの普及・浸透による、一部のさまざまな人たちとの関係性についてである。 2019年3月11日。また、考えさせられる出来事があった。 その日は、広島東洋カープの拠地「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島」での練習日だった。'11年の同日に東日大震災で被災した方々へ対し、チーム全員で黙祷を捧げた。そのシーンを、携帯電話で撮影して弊社のSNS担当者へ画像を渡した。 削除した1枚の写真。 その写真は球団公式SNSにアップして1時間も経たないうちに、削除す

    顔が見えないSNSとの向き合い方。日本ハム・広報が抱える葛藤。(高山通史)
  • 遠藤保仁、J1通算600試合達成へ。親友たちだけが知るヤットの凄さ。(下薗昌記)

    遠藤保仁というプレーヤーは、実に多くの「枕詞」で語られる選手である。 冷静沈着、マイペース、泰然自若、クール、鉄仮面……。いずれの言葉も、稀代のプレーメーカーを構成する一部であるのは間違いないが、遠藤という男は、実のところ、根っからの熱血漢である。 ガンバ大阪が勝てば、J1残留を確定させる11月10日の湘南ベルマーレ戦。遠藤はJ1通算600試合出場の大台に到達する。歴代最多は名古屋グランパスの楢崎正剛が持つ631試合だが、フィールドプレーヤーとしては史上初めての偉業である。 人も「誇りに思う」偉業。 数字には興味がない、と公言してはばからない男が、600試合という大台を目前に、こんな言葉を口にした。 「プロ21年目で、ようやく到達できた数字。20年以上、プロの世界でやれていることはありがたいし、嬉しい。誇りにも思う」 遠藤が胸を張るのは当然だ。J1のピッチに600回、足を踏み入れるだけで

    遠藤保仁、J1通算600試合達成へ。親友たちだけが知るヤットの凄さ。(下薗昌記)
  • ベルマーレ伝説の広報・遠藤さちえ。最初はほぼストーカー、そして……。(飯尾篤史)

    その“迷惑行為”がなければ彼女の人生は、いや、もしかするとクラブの未来も、変わっていたかもしれない。 「1年半くらい、何度も電話を掛けたり、手紙を書いたり、スタジアムに会いに行ったりして。今でいうストーカーですよね、完全に」 湘南ベルマーレで長く広報を務め、今は営業を担当する遠藤さちえは、25年近く前の出来事を振り返って、苦笑した。 当時、短大生だった遠藤が“ストーカー行為”を働いていた相手は、ベルマーレのチーム統括部長だった上田栄治である。のちにベルマーレやなでしこジャパンの監督、日サッカー協会女子委員長などを歴任した人物だ。 そんな上田にアプローチを続けたのには、理由があった。 「どうしてもベルマーレで働きたくて。惚れ込んじゃったんです」 高校時代、遠藤はサッカー部のマネージャーを務めていた。運動音痴だけれど、スポーツが大好きな遠藤にとって、選手のサポートはぴったりの仕事に思えた。

    ベルマーレ伝説の広報・遠藤さちえ。最初はほぼストーカー、そして……。(飯尾篤史)
  • 世界を駆けるFIFAコンサルタント。杉原海太の言葉でJの制度を考える。 - 海外サッカー - Number Web - ナンバー

    「国ごとに、置かれたサッカー界の状況も経済状況含めた国の状況も違うので、制度の導入はコピペではうまくいかない。」 杉原海太(FIFAコンサルタント) Number誌の連載「スポーツ仕事人」の取材で、FIFAコンサルタントの杉原海太に話を聞く機会があった。 FIFAでは一連の汚職事件の反省を生かし、リーグ、クラブ、選手の声をもっと反映すべく、新たに「フットボールステークホルダーズ委員会」を設立した。それに呼応する形で、「プロフェッショナルフットボール」部門も立ち上げられた。 杉原は新部門の下で、世界中のリーグ、クラブ、選手をサポートする仕事をしており、クラブライセンス制度の世界各国での導入もそのうちの1つだ。ヨーロッパではクラブライセンス制度は広く導入されているが、それ以外の地域では制度が導入されていない国も多い。 ヨーロッパにはクラブ経営のエキスパートも多く、またそういった人材を十分に雇

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  • <歩みをとめない者たち>宮本恒靖の“今を生きる”原動力。(二宮寿朗)

    恒靖は、バーンアウトと表現する。 2006年、ドイツワールドカップ。ベスト16まで進んだ日韓大会以上の結果を期待されたものの、惨敗に終わった。キャプテンとしてすべてを注ぎ込んできただけに、その代償は思った以上に大きかった。 もう12年も前の出来事になる。宮は古巣ガンバ大阪に戻って指導者となり、U-23監督とトップチームのコーチを務めている。ビターな記憶は、今なお新鮮なままである。 「ショックはありましたね。いい結果をもたらすことができず、モヤモヤしたままでガンバ大阪の練習に復帰して、そこでヒデ(中田英寿)の引退表明もありました。自分に置き換えてみても、キャリアの終わりが近づいていると感じさせられました。ドイツから帰国してJリーグの試合がめぐってくるなかで、集中力を保とうとはしていたつもりです。しかし気持ちとパフォーマンスにズレが生じていて、プレー自体あまり良くなかったかなって思います

    <歩みをとめない者たち>宮本恒靖の“今を生きる”原動力。(二宮寿朗)
  • 仲介人、社長、実況アナウンサー。西岡明彦の24時間365日サッカー人生。(飯尾篤史)

    アナウンサーを職業として選ぶ人は、しゃべることが天職だと感じている人ばかりだろうと思っていた。ましてや会社を辞めてフリーランスとなり、サッカーに特化して、その業界を代表する実況者として認識されているような人なら、なおさらだ。 しかし、「DAZN」や「スカパー!」などのサッカー中継でお馴染みの西岡明彦は「しゃべり手になるつもりで会社を辞めたわけではないんですよね」と振り返る。 アナウンサーとしての仕事を軽視しているわけではない。そこには、彼ならではのサッカー愛があった。 広島ホームテレビのアナウンサーを務めていた西岡が退社を決意したのは、入社7年目となる28歳、1998年のことだった。 1年1年が勝負のプロと、サラリーマン。 当時はJリーグの創成期である。広島ホームテレビのJリーグ中継は年間2試合しかなかったが、西岡はサンフレッチェ広島の取材に足を運ぶうちに、サッカーに、Jリーグに、サンフレ

    仲介人、社長、実況アナウンサー。西岡明彦の24時間365日サッカー人生。(飯尾篤史)
  • 就活生に贈るジェフ町田也真人物語。人生を変えたブライダル会社の面接。(杉園昌之)

    街でリクルートスーツの大学生を見ると、ふと昔の自分を思い出し、エールを送りたくなる。 「頑張れよ。あきらめるな」 昨季からジェフユナイテッド千葉の背番号10を背負う町田也真人(まちだ・やまと)も、一般企業の就職活動を経験した1人だ。 時代はリーマンショックの影響で就職氷河期と言われた頃だ。2010年、専修大学3年生の12月。親から譲り受けたノートパソコンを開き、リクルートの「リクナビ」など、複数の就職活動サイトに登録したことをよく覚えている。 当時、専修大は関東大学2部リーグから1部昇格を決めたばかり。町田はチームの主軸として活躍していたが、プロから注目されるような存在ではなかった。年代別日本代表の経験もなければ、大学の地域選抜に名を連ねたこともない。 「気でJリーガーになりたいと思っていたけれど、イメージはまったくできなかった」 当にサッカーで生きていけるのか――。大学4年生を迎える

    就活生に贈るジェフ町田也真人物語。人生を変えたブライダル会社の面接。(杉園昌之)
  • 大谷翔平が最速“インストール”したプホルス先生の「ヒールダウン打法」。(鷲田康)

    人選手の多くが悩んだメジャーリーグへの適応。この短期間での大谷の尋常ならざる急成長ぶりには理由があった。 翔タイムが続いている。 開幕から約2週間、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平投手のメジャーデビューを追ってオークランドからアナハイムと米国を旅してきた。 半信半疑だった現地のメディア、関係者も、打者としていきなり3連発した直後に、今度は投手として7回途中まで“完全未遂”のピッチングを見せられては、もはや二刀流を認めざるをえないのは言うまでもない。手のひらを返したように、大谷賛歌が現地を賑わせていることは読者もご承知の通りである。 それではなぜ、ここまで大谷が絶好なスタートダッシュを切れたのか? 2週間の取材旅行の中で感じた1つの要因をここで書いてみようと思う。 オープン戦では投打に出遅れたように見えたが……。 当初から投手ではある程度、早い段階から結果を残せるが、打者では少し苦労す

    大谷翔平が最速“インストール”したプホルス先生の「ヒールダウン打法」。(鷲田康)
  • スピードスケートだけでメダル6個!日本を変えたデビットコーチの4年間。(矢内由美子)

    平昌五輪で金3、銀2、銅1、計6個のメダル獲得と入賞9という成績を残した日スピードスケート勢。メダルゼロどころか入賞もわずか4だった'14年ソチ五輪からの大躍進の背景とは――。 '14年6月。日電産サンキョー・スケート部の今村俊明監督は、3人の選手を連れてスケート王国のオランダに向かった。'10年バンクーバー五輪では同社(当時)の長島圭一郎と加藤条治が男子500mでそれぞれ銀、銅メダルを獲得したが、ソチ五輪では2人とも入賞止まり。女子中長距離の高木菜那は入賞からも遠かった。 今村監督は高木、入社1年目のウイリアムソン師円ら中長距離の3選手とともに、オランダのプロチーム「ニューバランス・スピードスケートチーム」の門を叩いた。 簡単に受け入れてくれた訳ではない。日電産サンキョーが同チームのスポンサーフィーを払っての参加だった。今村監督はスケート仲間の知人を頼って情報を収集し、「良いコーチ

    スピードスケートだけでメダル6個!日本を変えたデビットコーチの4年間。(矢内由美子)
  • ガンバ、クルピ就任を巡る全真相。長谷川体制終焉を決めたあの試合。(下薗昌記)

    ガンバ大阪は、9月7日に今季限りで長谷川体制にピリオドを打つことを正式に発表した。その後任人事を巡って複数の外国人指揮官の名前が各スポーツ紙で取りざたされたが、実のところ、レヴィー・クルピ氏の一釣りが水面下で、密かに、そして着実に進行していた。 2年連続の無冠に終わったばかりか、アジアチャンピオンズリーグでも2年連続でグループステージ最下位に終わる醜態。指揮官が、今季の新体制会見でもあえて熱望していた外国人ストライカーの獲得で後手を踏むなど、フロントの認識の甘さが今季の低迷の一因だったのは間違いない。 ただ、セホーン監督招聘時には強化部のナンバーツーだった梶居勝志強化部長は、その後、強化部長(当時)の立場で降格を経験。監督人事がクラブの命運を左右することを肌身で知るだけに、後任監督は慎重に、そして速やかに選定を進めて来たのは評価されるべき点であろう。 「ポスト長谷川」はガンバにとって

    ガンバ、クルピ就任を巡る全真相。長谷川体制終焉を決めたあの試合。(下薗昌記)
  • 岡田武史と南場智子が語るスタジアムという場所の特権性とは。(二宮寿朗)

    スタジアムは人を幸せにする。 非日常の空間に集い、プレーに熱狂し、喜びを感じる。それはサッカーだろうが、野球だろうが変わらない真理である。 J3昇格を目指すJFL、FC今治のオーナーを務める岡田武史は今夏、今治市から土地の無償貸与を受けて自前で5000人収容のサッカー専用「ありがとうサービス.夢スタジアム」を完成させた。 観客席からピッチまで8mと近く、柵は設置されていない。海賊船をモチーフにしたつくりで、バックスタンドを設置しないことでメインスタンドからは今治市街と瀬戸内海をのぞむ。9月10日、こけら落としとなったヴェルスパ大分戦では5241人の大観衆を集めた。会場は祭りのイメージで、コンサートあり、グルメあり、インターネットサービスを使っての宝さがしあり。大いに盛り上がりを見せたことからも岡田オーナーが描くフットボールパーク構想は、上々の船出であった。 岡田オーナーにとって、刺激の源泉

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  • ハリルを支えるスタッフ6人に聞く。皆さんの担当業務って、何ですか?(二宮寿朗)

    ハリルホジッチ監督は言う。「準備がすべて」であると。 その準備はいかになされているのか? 完璧主義者たる監督を支える、6人のコーチ陣の仕事ぶりに迫った。 Number928号(2017年6月1日発売)から全文掲載します! 完璧な準備――。 ヴァイッド・ハリルホジッチがよく口にするワードである。 「私はすべてをプログラムして、すべてをオーガナイズしてやっていく。選手が我々のところに来たときには、準備してきたものをやってもらって向上させるだけだ」 東京・郷にあるJFAハウスには、ハリルホジッチ専用の監督室が用意されている。ホワイトボードには選手名や、出場予定の試合スケジュールが書き込まれ、大型テレビには試合が流れている。 その監督室の隣に、コーチングスタッフ専用の部屋がある。ここが「完璧な準備」の最前線基地となっている。 メンバーは6人。コーチにジャッキー・ボヌベー、リオ五輪代表監督を務めた

    ハリルを支えるスタッフ6人に聞く。皆さんの担当業務って、何ですか?(二宮寿朗)
  • 日本ハムの新スタジアム構想が凄い!「入場料無し」「弁当無し」の衝撃。(鈴木忠平)

    「彼らに聞いたら『だって甲子園に行くつもりで高校に入ったから』と……。僕とはそこが決定的に違いました。つまり自分が想像できないことは達成されない。そういうことです」 北海道旅行の目標になる、壮大なスタジアム構想を! その青年は今、北海道ハムファイターズ事業統轄部長として、新球場構想のプロジェクトを担っている。今年6月29日、新スタジアムのイメージ図を発表した席で「オンリー・ワンか、ナンバー・ワンか。北海道の皆様の誇りになるような球場にしたい」と語ったのが前沢だった。 「北海道を象徴するような文化であり、街づくりの中心となるようなものができれば、自然とオンリー・ワンになるし、世界ナンバー・ワンになると思っています」 例えば、北海道旅行に行く人に「何のために?」と尋ねると、こう答える。 「そりゃあ、美味しい海産物と◯◯スタジアムだよ」 これが前沢の言う文化としての球場であり、街づくりの

    日本ハムの新スタジアム構想が凄い!「入場料無し」「弁当無し」の衝撃。(鈴木忠平)
  • ドルトムントCEOが語った経営と愛。「日本人はそう思わないんですか?」(山口裕平)

    クラブのポロシャツで登場したヴァツケCEO。経営者というよりも、サッカーとドルトムントを愛する人という印象が強烈だった。 浦和レッズのホーム、埼玉スタジアム2002があれほど赤以外の色で染まるのは、代表戦を除けばあまり見られない光景だった。 香川真司が所属することで知られるドルトムントは、世界で最も観客数が多いサッカークラブであり、そして実は2000年代半ばには破綻の危機に瀕していたクラブでもある。 そのドルトムントを率いるハンス・ヨアヒム・ヴァツケCEOは、経済的V字回復を果たした敏腕経営者である。しかし同時に、それ以上にサッカーを愛するごく普通のいちサッカー好きの側面も持ち合わせていることが、話を聞くうちにわかってきた。 ヴァツケCEOサッカーのどこに惚れこみ、そしてどのようにドルトムントを現在の地位まで導いたのか。 ――ドルトムントのファンは今や世界中にいます。先日も年間チケット保

    ドルトムントCEOが語った経営と愛。「日本人はそう思わないんですか?」(山口裕平)