ベストアルバム『SCIENCE FICTION』を発表した宇多田ヒカルさんと、ハヤカワSFコンテスト出身の直木賞受賞作家・小川哲さんによる、SFマガジン史上に残る豪華対談が話題となり、発売前にもかかわらず増刷なったSFマガジン2024年6月号。本欄では、その対談全文をなんと無料で公開いたします! SFマガジン2024年6月号 定価:1320円(税込)早川書房特別対談:宇多田ヒカル×小川哲撮影:古谷勝/Styling:小川恭平/Hair and Make-up:稲垣亮弐「Automatic / time will tell」での鮮烈なデビューから25 年――初のベストアルバム『SCIENCE FICTION』を発表した宇多田ヒカルと、ハヤカワSF コンテストからデビューし『地図と拳』での直木賞受賞も記憶に新しいSF 作家・小川哲の特別対談が実現。二人のアーティストを育んだ「SF」そして「文学
【特別取材】「音楽業界にとって今ほど面白い時代はない」世界各国でヒップホップを主流に乗せたBelieve社ロマン・ヴィヴィアン氏が語る日本の音楽産業の未来 TuneCoreを傘下に持つBelieve社が、日本上陸を本格化させている。最近ではワーナーミュージックによる株式公開買付の申し出があるも、株式非上場化で独立を選び話題を呼んだ。今回取材したロマン・ヴィヴィアン氏はヴァージン、キャピトルで要職を務めた後、2008年にわずか10人だったBelieveに入社。同社の急成長を助けてグローバルミュージックヘッド兼ヨーロッパ社長となった。今やBelieveは1,900人以上のスタッフを50カ国に持つ世界最大級の音楽会社に成長している。氏が日本の音楽市場に強いポテンシャルを感じる理由とは? 日本のヒップホップに注力するのはなぜなのか? (インタビュアー:Musicman編集長 榎本幹朗 取材日:20
ブルース・スプリングスティーンに“レーシング・イン・ザ・ストリート”という曲がある。『Darkness on the Edge of Town(町外れの暗闇)』、日本では『闇に吠える街』という邦題で知られている1978年のアルバムのA面最後に入っている曲だ。アメリカという国おいて、車、そしてストリート・レースとは庶民的な、いや、労働者階級文化の庶民性をもっとも反映したサブカルチャーだ。ぼくは一度だけ、1998年9月、デトロイトでのストリート・レースを見物したことがある。たしかに「町外れの暗闇」に包まれた道路の、夜の深い時間だった。 スプリングスティーンの“レーシング・イン・ザ・ストリート”が名曲なのは、元工場労働者/バスの運転手だった父親のもとに育った彼が、70年代後半の名作と言われている諸曲と同様に、洞察力をもってアメリカ労働者階級の日常をリリカルに描いている点にある。が、同曲の歌詞はそ
1947年に創刊され、63年もの間日本のジャズ振興に努めジャズ文化をリードして来たスインズジャーナル誌は2010年に惜しまれながら休刊となり現在もそのままです。 2001年1月号で行われた『読者が選ぶジャズ名盤ベスト100』は今でもジャズ名盤の宝庫です。 実際にレコード、CDを購入した読者からの投票により選ばれているので説得力がありました。 こちらでは『読者が選ぶジャズ名盤ベスト100』の紹介と、100枚の中から 現在Shop.で販売している復刻盤をお知らせします。 アルバムタイトルが『赤文字』のレコードは再プレス待ちも含みますが取扱い販売中です。 26位 〜 50位はこちらになります。 1 位 ワルツ・フォー・デビー <演奏> ビル・エヴァンス(p)/スコット・ラファロ(b)/ポール・モチアン(ds) ・オリジナルレーベル:Riverside ・制作:Analogue Productio
野田努 2002年の日韓ワールドカップのときのことだ。抽選でチケットの買えた試合が、横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)で行われたアイルランド・サウジアラビア戦だった。緑色のユニフォームを着た大勢のアイルランド人たちのほぼひとりひとりが、缶ビール500mlの6缶入りのパックを手にぶら下げて、あるいは、スタジオ周辺の道ばたで試合開始の数時間前から座って飲んでいる。道中にあった立ち食いそば屋も缶ビールを手にしたアイルランド人たちで占拠され、なかばパブと化していた。こうなれば頭のなかはザ・ポーグスだ。このバンドからはいくつかのアイルランド民謡を教えてもらった。“ウイスキー・イン・ザ・ジャー”、それから“アイリッシュ・ローバー”。初めてロンドンを訪れたときは、ソーホーを歩きながら“ソーホーの雨の夜”を思い出した。映画『ストレート・トゥ・ヘル』も忘れられない。ご多分に漏れず、クリスマスには何回も
ヤング・ガン・シルヴァー・フォックスのボーカリストとしてもおなじみのアンディ・プラッツ。彼が率いる、イギリスの5人組バンドがママズ・ガンで、前作から5年ぶりとなる6枚目のアルバム(オリジナルアルバムとしては5枚目)『Cure The Jones』がついにリリースとなった。 ベーシストに次いでドラマーのメンバーチェンジも経てつくり上げた前作『Golden Days』は、ビートルズやELOといったUKポップの後継者でもあったママズ・ガンが、ソウルバンドとして再出発を果たした力作だった。しかし、さあこれからという時、コロナ禍がバンドを襲う。 それでも、世界的なパンデミックの出口が見え始めた今、彼らはさらに強力なソウルを携え、帰ってきた。ママズ・ガンに「理想的な現代ソウルバンドの姿を見る」と言う、OKAMOTO'Sのハマ·オカモト氏に、バンドと、新作の魅力を存分に語ってもらった。
【告知】「ふつうの軽音部」、ジャンプ+で1/14(日)より連載開始します!!初回は一挙4話配信です!! 私は原作担当で、作画は「野球場でいただきます」の出内テツオ先生が担当します!! 毎週日曜更新の週刊連載となりますので、これからどうかよろしくお願いいたします!!
ジャズファンクという呼ばれ方が浸透するようになったのは、80年代、90年代以降のアシッドジャズ(acid jazz)やレアグルーブ(Rare groove)、ヒップホップ (hip hop) ムーブメントが起こった以降のことで、それまではジャズロックやフュージョン、クロスオーバージャズなどのような呼ばれ方をされていた。 60年代のjimmy smithなどのアーティストがブルーノートから出したgroovyなオルガンジャズがジャズファンクの起源となり、マイルス・デイヴィスが発表したビッチェズ・ブリューを筆頭に、ジャズと電子楽器、ロックを融合したエレクトリック・ジャズに急接近した1970年代前後から様々な実験的なジャズファンクが作られた。 イージーリスティング的な要素が強く、本物志向のJazzファンやFunkファンからは見向きもされないような音楽性であったが、セールス的にはブームとなり好調な時
「BUBKA6月号」に登場している崎山蒼志 撮影/河西遼 吉田豪によるミュージシャンインタビュー連載。第五回のゲストは、崎山蒼志。高校生シンガーソングライターとして並み居る同業者から賛辞を受け、現在もまだ弱冠二十歳。そんな彼のフレッシュ、ディープ、ハートウォーミングな素顔に迫ります。 家族とVからの影響 ――この連載は基本、中年に差し掛かったミュージシャンの迷いや自意識について聞いてるので、今日はどうなるのかサッパリわからないんですけど、いままでのゲストが尾崎世界観さん、向井秀徳さん、マヒトゥ・ザ・ピーポーさん、スカート澤部(渡)さんなんですよ。 崎山蒼志 それをお聞きしてて、恐れ多すぎてって感じなんですよ。全員に影響受けてるんです、全員大好き。だからちょっと……。 ――かなりのプレッシャーが? 崎山蒼志 少し……。存在としてすごい影響を受けた4人というか。尾崎世界観さんは最初に出会ったの
細野晴臣が生み出してきた作品やリスナー遍歴を通じてそのキャリアを改めて掘り下げるべく、さまざまなジャンルについて探求する「細野ゼミ」。2020年10月の始動以来、「アンビエント」「エキゾチカ」「ロック」「テクノ」など全10コマにわたってさまざまな音楽を取り上げてきたが、氏の音楽観をより深く学ぶべく今回より“補講”を開講する。 ゼミ生として参加するのは、氏を敬愛してやまない安部勇磨(never young beach)とハマ・オカモト(OKAMOTO'S)という同世代アーティスト2人だ。ハマのリクエストをもとに、第1回の「補講」で取り上げるのは「ソウルミュージック」。前編は細野が特に入れ込んで聴いていた作品や、ベーシストとして影響を受けたプレイヤーの話を軸に展開していった。 ※「細野ゼミ」ソウルミュージック本編はこちら(前編 / 後編)。 取材・文 / 加藤一陽 題字 / 細野晴臣 イラスト
マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ (Muscle Shoals Sound Studio)はアメリカ、アラバマ州シェフィールド・ジャクソン・ハイウェイ3614番地にあった音楽録音スタジオで、1969年から1979年まで稼働した。のちに場所をアラバマ・アベニュー1000に移転して現在にいたる。旧スタジオの建物は現在アメリカ合衆国国家歴史登録財として管理されている。 略史[編集] 1959年、当時ソングライターとして活動していたリック・ホールは友人らと共にフローレンスに音楽出版社「フローレンス・アラバマ・ミュージック・エンタープライゼズ(Florence Alabama Music Enterprises)」、すなわち「FAME」を設立した[1]。1960年代初頭にホールは隣町のマッスル・ショールズに移り、かつてタバコの倉庫だった建物をスタジオに改造、フェイム・スタジオを作った。マッス
音楽情報サイト『bmr』の編集長を務めながら音楽評論家/編集者/ラジオDJなど幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第5回です。コラムの過去回はこちら 第5回【その頃は「ネオ・ソウル」なんてなかった】 ディアンジェロの『Brown Sugar』がリリースされたのは1995年の7月。当時のディアンジェロは……えっ、21歳? 若い身空で成熟しすぎである。なんなんだ、この熟れ具合は。いま聴いても、この音楽的老け込み方は衝撃だが、当然ながらリアルタイムでのショックも相当なものだった。 だが、『Brown Sugar』がハッキリと大成功作品と見極められたのは、同1995年8月(タイトル曲がR&Bチャート5位まで上昇)から12月(「Cruisin’」が同10位)の間と思われる。 この成功は大きかった。その大きさは、他社の反応からわかる。つまり……この成功劇を見た
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