青森県黒石市で石に猫の姿が彫られた「猫碑」が計3基見つかった。市史に石碑に関する記述はあるが、実物は確認されていなかった。うち2基を発見した宮城県村田町歴史みらい館の石黒伸一朗専門員(61)によると、青森県内での猫碑の発見は初めてで、日本最北端のものとみられる。 石黒さんが見つけた2基の猫碑は猫の姿が浮かび上がるように彫られ、高さ22~24センチの大きさ。台座はなく、地面に置かれていた。いずれも三角形にとがっている頭部が特徴的という。 2基のうち、同市大川原で見つかった猫碑の正面には「奉納」「明治八年」の文字と右側面に「久三良立之(久三良之(これ)を立てる)」との文言が彫られていた。残る同市高舘の墓地にあった猫碑には、建立年などは彫られていなかった。 1985年発行の市史には2基の猫碑の所在地が記されている。石黒さんはこの情報を頼りに2011年秋に実物を発見し、今年5月、仙台市であった猫に
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いつも通る八千代市新川の村上橋、その橋の西北に角型の石柱が一つ、ぽつんと立っています。 花火大会や花見時は、その前に露店も出て、大勢の人が行きかう場所です。 新川沿いの平戸橋詰には、2基の日蓮宗系の題目碑、対岸には逆水の方々が建てた「南無阿弥陀仏」の称名塔があり、宗派が異なっていても、いずれも水難横死者の霊の菩提を祈る銘文が記されています。(⇒「平戸の大川施餓鬼風景」) 平戸と同じく、日蓮宗神保領千部講の「大川施餓鬼」が行われる島田台や佐山、真木野の村々の水辺にも、明治30年代から大正にかけての同様な水難供養塔が数基あり、洪水などによる災難が近代でも深刻であったことが伺えます。 このような背景とそのたたずまいから、村上橋詰の石塔も水難供養塔の一つではないかと思っていたのですが、萱田の女人信仰の石造物を調べていくうち、実はこの塔はその銘文から八千代市萱田上区の女性たちが建てた産死者の供養塔で
死者儀礼の一つ。「産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水施餓鬼(みずせがき)」という歌があるように、難産で死んだ女性の霊は血の池に落ちて苦しむという仏説に基づき、その霊を救済しようとする呪(じゅ)的な行事。洗い晒(ざら)し、水かけ供養などともいい、水辺に4本の杭(くい)や竹を立てて布を張っておき、通りがかりの人に柄杓(ひしゃく)で水をかけてもらう。赤い布の色や、布に書いた経句の文字が消えると、死者の霊が成仏(じょうぶつ)するという。川に縄や布を流す例もある。灌頂は本来、頂(いただき)(頭)に水を灌(そそ)ぐことで、キリスト教の洗礼と同じく、俗人から聖職に生まれ変わる儀礼であった。成人式や婚礼にも水祝儀(しゅうぎ)などがあり、通過儀礼の折々に次の段階に生まれ変わる意味がある。産死は予測できない不幸であるが、仏教儀礼やその元になった再生の呪術を取り込み、さらにいくつかの要素を加えて、極楽浄土
地域 宮古島市 伝統行事「パーントゥ」始まる2011年10月3日 Tweet 無差別に泥を塗りつけるパーントゥ=2日午後、宮古島市平良島尻 【宮古島】全身に泥をまとった異形の神が人や物に無差別に泥を塗って厄払いする、宮古島市平良島尻の伝統行事で国指定重要無形民俗文化財の「パーントゥ」が、2日から同集落で始まった。3日まで。 名高い奇祭を体感しようと、地域住民以外にも多くの観光客が集まり、迫り来るパーントゥから笑顔で逃げ回った。子どもたちの中には恐怖で泣き出す姿も見られた。【琉球新報電子版】 次の記事:首里高内の不発弾、700人避難し処理>> 今日の記事一覧 今月の記事一覧 最近の人気記事
江戸時代まで日本の「神道」で最大勢力誇ってたのは稲荷信仰だよねとか、いわゆる国家神道(伊勢派)系の創世神話と全然関係ない菅原道真(天神様)が信仰されまくりとか、そもそも明治の強制改宗まで日本全国神道といったらわけのわからん土着信仰だらけだとか、明治に入ってから政治的に神道が再編されるにあたっての伊勢派と出雲派の争いとか、神道を歴史の観点で見るのもそれはそれで面白いけど、宗教としての神道的には黒歴史とまでは言わないにしろ割とアレじゃないですか。都合悪いっつーか。 だからこう、神道側の人はとりあえず古事記(創世神話)→本居宣長→国家神道みたいにホップ・ステップ・ワープで扱うのがお約束になるし、反神道側の人からすりゃわざわざ扱うほどのことでもないし、第三者的な視点でおもすれーとか言ってるのって民俗学者くらいじゃないですかね。
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