令和6年5月の法話 静岡教区 報土寺 戸﨑博隆上人による法話『驕慢心は往生を危からしむ』をご覧いただけます。
「用管窺天記」から転載 自力によって自力を捨てようとすれば無限遡及に陥るということを記したブログを見て、ふと20数年前に記した文章を思い出したのでサルベージして再掲。 知られる私 他力とか自力とか物を二つに分けて理解することが、分かるということなのでしょうか。分かるということは字のごとく物を分けることから分かるといいます。ここから我と他、彼と此が出てくるわけですね。だから「我他彼此」(ガタピシ)と毎日忙しいことです。忙という字は心が亡くなると書くぐらいですから。 さて、私が私を知るということは可能な事なのだろうか。確かに私に知られる側の私は、私によって知ることができますが、知る側の私を私が知る事はできません。知る側の私を私が知ったとき、それは知られている私であって、知る私ではなくなります。 そうすると知る私であったものが、知られる私になって、これを知る私をまた知ろうとして永遠に無限ループに
あぁだからあの動物ばっかとか猫ばっか撮ってる人らが人気出たのか。あれ全部苦労して自然体を撮ったのが素人にも分かるからな。
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