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ブックマーク / labo.wikidharma.org (15)

  • 十信 - WikiArc

  • 無分別智 - WikiArc

    むふんべつち 無分別心(むふんべつしん)、真智(しんち)、根智(こんぽんち)ともいう。真如を把握する智慧。人間は言葉によってモノ/コトを概念化し分別するのだが、そのような分別知によっては捉えることのできないさとりの智慧を無分別智という。 無分別智 むふんべつち 知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。 ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を質とした言葉を超えているから不思議といわれる。 しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示していく。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。 なお根智に

  • 因分可説/果分不可説 - WikiArc

  • 智慧 - WikiArc

  • 三心料簡および御法語 - WikiArc

  • トーク:自覚 - WikiArc

    「用管窺天記」から転載 自力によって自力を捨てようとすれば無限遡及に陥るということを記したブログを見て、ふと20数年前に記した文章を思い出したのでサルベージして再掲。 知られる私 他力とか自力とか物を二つに分けて理解することが、分かるということなのでしょうか。分かるということは字のごとく物を分けることから分かるといいます。ここから我と他、彼と此が出てくるわけですね。だから「我他彼此」(ガタピシ)と毎日忙しいことです。忙という字は心が亡くなると書くぐらいですから。 さて、私が私を知るということは可能な事なのだろうか。確かに私に知られる側の私は、私によって知ることができますが、知る側の私を私が知る事はできません。知る側の私を私が知ったとき、それは知られている私であって、知る私ではなくなります。 そうすると知る私であったものが、知られる私になって、これを知る私をまた知ろうとして永遠に無限ループに

    maemaemaemae
    maemaemaemae 2019/12/29
    「私は助からない者でしたと見ている側の私が、実は善人の立場で私を裁いている」
  • トーク:方便 - WikiArc

  • 仏説般舟三昧経 - WikiArc

    般舟三昧経の一巻。漢訳には後漢の支婁迦讖訳の三巻、支婁迦讖訳と伝えられるが実際には訳者不詳の一巻、訳者不明の『抜陂菩薩経』一巻、隋の闍那崛多訳の『大集経(だいじっきょう)』「賢護分」五巻の四があり、このうち第二の訳が最も多く用いられている。般舟三昧を得れば、十方の諸仏が現前するといい、とくに西方阿弥陀仏の見仏例を挙げる。現存の大乗経典の中では初期に成立したものといわれる。 シナ浄土教の嚆矢である廬山の慧遠は、念仏結社「白蓮社」を結び、般舟三昧経による空観の完成を目指した。浄土経典による浄土への往生を願うのではなく、現世での般舟三昧の行に依って精神を集中し見仏を目指すのが廬山流念仏であった。もっとも慧遠は夢の如く仏を見る、という教説にいささかの疑問を持っていたようである。 読下しは、願寺派の『観念法門』や『往生要集』の訓点を参考にした。 仏説 般舟三昧経 後漢月支三蔵 支婁迦讖訳

  • 領解文 - WikiArc

    書は、真宗教義を会得したままを口に出して陳述するように第8代宗主蓮如上人が作られたものとされ、山科願寺落成の頃から読むようになったといわれている。大谷派では『改悔文』とも称する。内容は簡潔で、一般の人にも理解されるように平易に記されたものではあるが、当時の異安心や秘事法門に対して、浄土真宗の正義をあらわしたものである。 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀如来の願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他の安心が示されている。 第2の報謝の段には、信の一念に往生が定まるから、それ以後の念仏は報恩にほかならないという、いわゆる称名報恩の義が示されている。したがって、この第1・第2の両段において、信心正因・称名報恩の宗義が領解されたことになる。 第3の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持された親鸞聖人や善知識の恩徳を謝すべきことが述べられている。 第4の法度の段には、真宗念仏者の生

  • 補註14 - WikiArc

    maemaemaemae
    maemaemaemae 2018/03/11
    女人についての注記。"釈尊は比丘尼、沙弥尼として女性の出家を許されたし、実際にさとりを開いた女性が存在していた"
  • 煩悩 - WikiArc

    ぼんのう 梵語クレーシャ(kleśa)の漢訳。惑(わく)とも漢訳する。身心を悩ませ、煩わせる精神作用の総称。衆生(しゅじょう)はこの煩悩によって業(ごう)を起こし、苦報(くほう)を受けて迷界に流転する。 煩悩の中で代表的な貪欲(とんよく)(むさぼり・我欲)・瞋恚(しんに)(いかり)愚痴(ぐち)(おろかさ・真理に対する無知)を三毒という。また驕慢(きょうまん)・疑・悪見をあわせて根煩悩という。→三毒 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』願寺出版社 『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』願寺出版社 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり願寺派の見解ではありません。 ぼんのう 煩悩 梵語クレーシャ (kleśa) の意訳。惑とも意訳する。身心を煩わせ、悩ませる精神作用の総称。『唯信鈔文意』には 「煩は身をわづらはす、 悩はこころをなやます」(註 708) とある。 衆

  • 補註6 - WikiArc

    maemaemaemae
    maemaemaemae 2017/02/18
    正定聚
  • 八聖道 - WikiArc

  • 現代語 無量寿経 (巻上) - WikiArc

    仏説無量寿経  (上巻) 曹魏の天竺三蔵康僧鎧訳す 無量寿経の説かれた由来(序分) (1) わたしが聞かせていただいたところは、次のようである。 あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、一万二千人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。 みな神通力をそなえたすぐれた聖者たちで、そのおもなものの名を、了際・正願・正語・大号・仁賢・離垢・名聞・善実・具足・牛王・優楼頻贏迦葉・伽耶伽葉・那提伽葉・摩訶伽葉・舎利弗・大目犍連・劫賓那・大住・大浄志・摩訶周那・満願子・離障・流灌・堅伏・面王・異乗・仁性・嘉楽・善来・羅云・阿難といい、教団における中心的な人たちばかりであった。 また、大乗の菩薩たちともご一緒であった。すなわち、普賢・文殊・弥勒など賢劫の時代のすべての菩薩と、さらに賢護などの十六名の菩薩、および、善思議・信慧・空無・神通華・光英・慧上・智憧・寂根・願慧・香象・宝英・中住・制行・解

  • WikiArc:浄土真宗聖典目次 - WikiArc

    生きることに意味があるように、死ぬることにも意義がある、と説くのが往生浄土の真宗です。その据わりは親鸞聖人の『教行証文類』です。 ※➡ 「隠/顕」 宗教とは、宗と教え、また、宗の教えの意で仏教のもろもろの教え、あるいはその中の一つを指していう。それは自らの存在の意味を確認しようといふ「存在理解の枠組み」でもあった。この種々の仏教の中で、浄土真宗は大人の宗教だといわれる。梯實圓和上は、それを、 浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬(ねた)んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。 そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そん

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