拡散と収斂 文学作品を読む場合、ことばの連なりから、われわれは想像力を働かせ、イメージをふくらませる。物語をどのように読もうが、どのように想像しようが、それは読者の自由であるし、文学の楽しみでもある。 ところが、そのように随筆(?)である『枕草子』を読むと、ほとんど意味をなさない。たとえば、「春はあけぼの」は古文の教科書に必ず載っているが、季節の風物の断片がちりばめられているだけで、いかに想像力を働かせても話の筋は見えない。それゆえ、「鋭い感性を味わう」といった解釈の放棄や、「『をかし』の省略」といった文章の不完全性の想定が生ずる。そんな風に習ったのではなかったか? それは、このテキストが、イメージを拡散しようとする読み方では対処できないことを意味する。逆に、イメージを収斂するように読むと、起承転結をもつ論理的な文章となる(注)。具体的なことばから概念が形成され、その組み合わせが命題となり