![記事中で言及されているのは秦郁彦氏ですが、専門家として秦郁彦氏を紹介することが歴史修正主義になるのですね。http://ask.fm/macskadotorg/answer/129196967851 | ask.fmhttps://ask.fm/macskadotorg](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/e726e7ffa1d2883945142a3e2330c95255defe6e/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcuau.ask.fm%2Fassets2%2F066%2F432%2F190%2F464%2Fnormal%2F10440782_10153565353830942_7308921881227152984_n.jpg)
南北戦争原因論は「南北の経済対立」、「奴隷制を巡る道義的対立」、「政治的失態の連続」など数種類あって互いに争っていると聞きます。これは争うまでもなく「いずれの原因も関わっていた」と一言で済むように思われますが、なぜ対立が続いているのでしょうか? すべての戦争の会戦原因をめぐる論争は、イデオロギー的色彩をまとうものとなります。ゆえにこの回答も、回答者たる全日本南北戦争フォーラム事務局長の一個人的見解である旨をまず断っておきます。南北戦争とは結局のところ、奴隷解放戦争でした。確かにそこには州権や経済構造格差の問題などが横たわっていましたが、それらの「火薬」を爆発させた「導火線」は間違いなく奴隷制をめぐる南北間の激しい論争で、州権や経済構造格差などは、奴隷制抜きにして、それだけで戦争原因になるようなものではありませんでした。南北戦争当時、ヨーロッパの主だった国ではすでに奴隷制は廃止されており、そ
.それぞれの段階に法的価値判断が伴いますので、論理学でいう三段論法とは別物です。昨年の学会はこの「法的三段論法」の再考がテーマで、法哲学者と実務家の捉え方の違いが興味深かったです*1。法哲学者はだいたい、結論が先にあってそれを逆算して正当化するだけのものだろう、みたいに露悪的なことを言いたがるのですが、実務家の多くはそこまででもなく、ヒューリスティックな有用性をわりとあっさり認めているような印象でした。結局どこが論理的なんだといわれるといろいろあれですが、いずれにせよ法解釈学というのは実践の学なので、その部分での厳密性にこだわってもあまり生産的ではないようにも思います。 ==== *1 10月ぐらいに『法哲学年報2013 民事裁判における「暗黙知」』(有斐閣)というのが出ますので(タイトルはもしかしたら変わるかも)、詳しい議論はそちらをご参照ください。
まず、彼女の関わる研究公正がらみの案件の多くについてまだ細部がはっきりしない以上、だれがどのくらい悪いかの判断はまだ控えるべきだと思います(Natureの論文自体についてはすでに撤回して当然の証拠がそろっていると思いますが)。 その上で、仮に博士論文における盗用問題に話をかぎって、本人が自発的に行ったとした場合、本人が悪いように思えない、というのは、研究公正というものについてのご意識が低すぎるように思います。学部生のレポートでコピペがばれたら、アメリカだったら退学ものですし、その深刻さの認識は徐々に日本でも共有されつつあります。 また、理系か文系かという話については、研究公正の取り組みは欧米の生命科学系などが起点となって広まってきたものです(それは問題が最も多く発生してきたという負の歴史の反映でもあるわけですが)。今回、研究者の間でもかなり温度差のある意見が出ているのは、文系か理系かではな
すいません、もう一ヶ月以上前に「もう時効だと思うヤバいエピソード教えてください」という質問を頂いてたんですが、この答えと一緒にさせて下さい。元々、俺がアニメーターになったキッカケは「アルバイトニュースにアニメーター募集と広告が出てたので」応募というか、履歴書持って面接に行ったんですが、本来アニメーターって技術職なので、そんなバイトの募集する訳ないんですよ。で、当時の俺がアニメーションに関して知ってる知識というと「アニメには絵を描く人と色を塗る人がいる」くらいしか知らなくて「色を塗るよりは絵を描く方が面白いだろう」程度の感覚だったのね。で、中村プロに面接に行ったら、動画のクリンナップ(清書)を描かされたんですが、そんなの未経験者が綺麗な清書なんて出来ない訳ですよ。なのに、何故か合格して中村プロに入る事になったんですけど、とにかくスタジオ内の雰囲気が何かオカシイ。動画の中割りの仕方なんて全然教
種(Kinds)が何かという問題はとても難しく、ぼくには明確に答えを出せるものではありません。ただ、この概念の歴史の中でミルが果たした役割は決して小さくない、ということは言えるでしょう。「種」概念の歴史の中にミルが位置づけられることはわりと標準的だと思われます(たとえばハッキングの諸著作などで)。最近の著作では植原亮先生の『実在論と知識の自然化』でも、種概念の変遷をたどった節でミルへの言及があります。なので、とりあえずはミルが『論理学体系』(第一篇第七章§4)でどんなことを言っていたのかだけ述べたいと思います。 まずミルは、世の中のあらゆる事物は言葉によって、なんらかの「クラス」に区別することが可能であると主張します。我々は、ある事物から何らかの特性(たとえば「白さ」)をとりだし、その特性に基づいてその事物をある特定のクラス(たとえば「白いもの」)に組み入れることが出来るわけです。また、こ
大学があり授業がある限りはだれかしら雇わないといけないわけで、教えながら哲学の研究をするというポジション自体は残っていくとは思います。ただ、漠然と自分の好きな研究だけしていれば評価されるというわけでもありませんし、どういう人がどういうところに採用されたかみたいなことを見て、早いうちから研究者としての生存戦略を考えるみたいなことは必要になると思います。「そういう小賢しいのがいやだから研究者を目指したのに」という人にとっては大変生きにくい時代になっていると思います。 哲学業界としては優秀な方たちにあとを継いでいただかないと先細りになっていくので、能力のある方には哲学の研究者を目指してほしい反面、とても「どんどんおいでください」と勧誘できる状況でないのも事実で、苦しいところです。
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