我考える、それゆえに、我あり。 近代の呪縛である。 近代的自我は、自分を凝視したところに出てくる。 でも、凝視されたのは、考えている自分の方であって、存在する自分の方ではなかった。この異様な凝視のなかで、存在する自分を導く論理が生み出された。 しかも、自分が考えていることと、自分がどうあるかということとは、いつも、食い違っているのだ。 その食い違いを意識したとき、近代の哲学ははじまった。 思索と存在の差異、とか、認識と実在の差異とかだったら、理論化できる。西洋哲学史は、各時代の最高の頭脳が、この差異を理論的に統一しようとする試みに従事してきた、その記録である。 しかし、「自分」を意識した近代的自我にとって、必要だったのは、匿名の思索と一般的な存在との一致ではなく、まさにこの「自分」の一致だった。 ホッブズにはじまり、ロック、ヒューム、アダム・スミスへと洗練されていった一連の