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cultとbookに関するmicrotestoのブックマーク (4)

  • 島薗進・宗教学とその周辺 | Just another WordPress weblog

    漱石が死に臨む時を経過し、また大自然を前にして感得している安らぎの境地は、漢詩の伝統から多くを得ているだろう。「詩僧」という語で自らを捉えているのも納得のいくところだ。だが、また儒教的な天や道教的な無、あるいは仏教的な空からも影響を受けたものだろう。死を前にした時期の漱石の「天」は、近代人の「魂のふるさと」の漱石的な形とも言えるだろう。それは漱石が自ら切り開いた境地であり、死生観という枠組みで捉えることもできるものだ。 漱石から現代まで 漱石から現代に至るまで、このような「その人自身の死生観」がさまざまに表出されてきた。共有されている死生観の枠組みからいったん切り離された個々人が、それぞれにつかみ取る、あるいは探り続けるものとしての死生観である。これが近代における死生観の特徴である。拙著『日人の死生観を読む』でもそのような死生観について宮沢賢治、折口信夫、吉田満、岸英夫、高見順などを例

  • 島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』 - uumin3の日記

    東大宗教学の柳川啓一門下の兄弟弟子で、院生時代も重なる二人が*1、どうしてこういう論争(といいますか、島田氏による一方的な断罪にも見えるのですが)をしなければならなかったのかということに興味を持ち、表題の書籍を購入して読みました。(亜紀書房、2007年、1700円) 別に読む前に「爽やかさ」を期待していたわけではないのですが、読めば読むほどぬるく重い感じを受けてしまいました。これは学術書ではもちろんなく、最初はちょっとした事実を悪いほうへ悪いほうへ捉えていったらこうもあろうかという、そういう不確かな告発でしかないのではと思えました。 ただ最後まで読んで、それ以外の側面として感じたものがあります。 それは、このがオウム事件にけりをつけたがっている島田氏の弁明の書であり、そのためにも中沢氏に何か語って欲しいという挑発の書としての在り方です。むしろこう杜撰に責めることによって(粗がありますか

    島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』 - uumin3の日記
  • [書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳): 極東ブログ

    大変な労作だと思うし、この一作をもって私は島田裕巳への評価を変えることした。粗方は想定していたことでもあり、驚きは少なかったとも言えるが、いくつかかねて疑問に思っていたことやミッシング・ピースをつなげる指摘もあり、貴重な読書体験でもあった。 ただ、読後自分なりの結論を言えば、あの時代島田裕巳を批判していた人々と同じ地平に島田裕巳が立ってしまっているのではないか、そうすることで暗黙の大衆的な免罪の位置に立とうしているのではないかとも思えた。もっとも、彼の意識の表出としてはこれ以上はないというくらいきちんとした反省の思索の跡が見られるので、それは批判ということではない。 書がどのようなであるかについては帯書きがわかりやすいと言えばわかりやすい。 初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し、サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない中沢新一。グル思想、政治性、霊的革命、殺人の恍惚な

  • heuristic ways - 伊東乾『さよなら、サイレント・ネイビー』

    著者の伊東乾氏は、地下鉄サリン事件の実行犯の一人・豊田亨と大学時代(東大理学部物理学科)の同級生だったという。氏は、拘置所内の豊田と接見や文通をしながら、なぜいかにしてあの事件が起きたのか、そして「豊田と私を分けたものはなんなのか?」を問い続けてきた。氏の目的は、「二度とああいう事を繰り返してはならない」ということ。同じような事件の「再発防止」の道を明らかにし、「オウムもサリン事件も知らない、若い世代」の人々に訴えるにはどうすればよいか。氏は2000年より東大助教授の職を得て、そこで「情報処理」の科目を担当し、「豊田に協力してもらって「再発防止カリキュラム」を作り、毎年300〜400人ほどの学生を指導している」という。だが、「もっと間口広く、ひとりひとりに語りかける」ためにこの原稿を書き、「開高健ノンフィクション賞」に応募するというルートで出版に漕ぎつけたということらしい。 このにはたし

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