さっきカフェーの写真を貼りましたが、これは大正14年(1925年)。女給が付くカフェーの先駆けだった「カフェー・ライオン」の厄介客番付です。『銀座』より。 最も思う理由もありますし、完全にいちゃもんと思われる理由もあります。 しか… https://t.co/UizLWUL3b8
白柳秀湖(しらやなぎ しゅうこ)は、早稲田大学文学部哲学科に在学中に堺利彦・幸徳秋水らの影響を受け社会主義思想に接近し、プロレタリア文学運動の先駆となる作品をいくつか残したが、大逆事件以後社会主義とは縁を切り、文学ともはなれ、在野の歴史家、社会評論家として多くの著書を残している。 白柳の著作のうち4点がGHQによって焚書処分されているが、今回は昭和七年に刊行された『日本外交の血路』という本を紹介させていただきたい。彼の社会評論は過去の歴史を紐解いてその時代を読み解いていくスタイルで、非常に面白く説得力がある。 孤立はそれほど悲観すべきではない この本の冒頭に白柳は、昭和六年九月に始まった満州事変のことを書いている。文中の中で何度か「欧州大戦」という言葉が出てくるが、今でいう「第一次世界大戦」のことである。 欧州の近世史は、フランスが欧州を支配するか、イギリスが欧州を支配するかの競争で幕が開
魚の皮などで作った伝統工芸品を手にするニブフの女性たち=サハリン州立郷土博物館で2015年9月、真野森作撮影 明治時代後期の北海道などを舞台に、アイヌ民族の少女と元日本軍兵士のコンビが埋蔵金争奪戦で奮闘する野田サトルの冒険漫画「ゴールデンカムイ」(集英社の「週刊ヤングジャンプ」で連載)が高い人気を集めている。コミックスはシリーズ累計発行部数が1700万部を超え、連載は最終章に入った。 物語では、北海道の北に位置する旧樺太(サハリン)とそこに生きる先住民族、さらには隣り合う帝政ロシアも重要な鍵を握る。 日露戦争後から第二次世界大戦終結まで、20世紀前半の40年間にわたって北緯50度以南のサハリンは南樺太と呼ばれ、日本領だった。現地には今でも日本の面影が残り、先住民族や日系人、コリアンも暮らす。第二次世界大戦での日ソ戦が終結したのは76年前、1945年9月5日のことだ。日本領時代に中心都市だっ
タイトルから想像した内容とは違ったが、興味深い本だった。『従軍慰安婦と公娼制度――従軍慰安婦問題再論』(共栄書房)。いわゆる従軍慰安婦問題を正面から扱っているのかと思ったら、そうではなかった。明治期から戦前までの海外における「日本人売春婦」の問題が軸になっている。たまたま同社の別の本を調べていて見つけた。10年前の刊行だが、あまり見慣れない情報やデータが掲載されていて、新鮮な驚きがあった。 「阿片」や「からゆきさん」 著者の倉橋正直さんは1943年生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程(東洋史学)修了。愛知県立大学名誉教授。 著書に『日本の阿片戦略――隠された国家犯罪』『阿片帝国・日本』『日本の阿片王――二反長音蔵とその時代』など阿片関係のほか、『北のからゆきさん』『島原のからゆきさん 奇僧・広田言証と大師堂』などがある。すでに1994年に『従軍慰安婦問
「とてつもない本」というのがある。本書もその一冊だろう。『戦前不敬発言大全』(パブリブ刊)。とにかくサブタイトルがすごい。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説」。これは「戦前ホンネ発言大全」というシリーズの第一巻だという。第二巻は『戦前反戦発言大全―― 落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反軍・反帝・反資本主義的言説』。両巻でワンセット。合わせて1000件ほどの具体例が掲載されている。 世相の裏面史 ぱらぱらとめくっていくと、これでもかという具合に、露骨かつストレートな文言が飛び出してくる。要するに戦前の刑法の不敬罪(皇室に対する罪、1947年削除)に基づき「不敬」とされ、摘発された問題発言のオンパレード。世相の一面というか、裏面史というか。いくつか紹介すると――。 「今に飯が食えなくなるぞ/産業戦士とおだてられ良い気になってる馬鹿野郎 戦争に勝っても負けても俺
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter @semakixxx News&Analysis 刻々と動く、国内外の経済動向・業界情報・政治や時事など、注目のテーマを徹底取材し、独自に分析。内外のネットワークを駆使し、「今」を伝えるニュース&解説コーナー。 バックナンバー一覧 東海道新幹線「のぞみ」が、3月14日で運行30周年を迎える。その誕生の経緯と、実現までの苦難、そして、新幹線の歴史において果たした役割とは。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也) 戦前に旧満州で運行していた
弁護士の紀藤正樹氏が15日、日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」に出演し、宗教団体・世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者による献金が日本と韓国で大きく違う点を指摘した。 番組では、安倍晋三元首相を銃撃し、殺害した山上徹也容疑者の母が傾倒した旧統一教会について取り上げた。MCの宮根誠司が「日本人だけがとにかく『献金、献金』っていう風に、法外なお金を払わされてるって聞くんですけど?」と質問。紀藤氏は「日本だけが特別扱いなんですけど、日本人だけが高い商品や金銭を要求されるということで、非常に差別的、日本だけの独自事情なんですよね」と認めた。 教会は日本だけで霊感商法を行っているとし「教義的な理由として『日本が戦前に韓国を併合し、韓国に攻め入った、それが日本人の罪なんだ』と。『罪を清算するために日本人は韓国に貢献しなければいけない』ということで、教義的なもので裏付けられてお金を出さされるという
その数日後、元日の新聞を見ていたら驚いた。俳優の吉永小百合さんがインタビューで「時代戻らないか心配」と語っていたのである。つまりこれも「新しい戦前」を語っているではないか。※聞き手は共同通信編集委員なので共同通信が各紙に配信したのだろう。私は信濃毎日新聞で読んだ。 吉永さんは1945年3月13日、タモリさんと同じ年に生まれている。タモリさんが吉永さんへの憧れを常にトークしていたことは記憶に新しいが、そんなふたりが期せずして今を語る際に「戦前」を口にしている。この事実には注目せざるを得ない。 吉永小百合が語った“反戦への思い” 東京大空襲の3日後に生まれた吉永さんは、自分は幼すぎて戦争体験があるとは言えないので、戦争についてさまざまなことを学んで伝えていかなければならないという気持ちで俳優業をやってきたという。自身にとって師匠のような存在という作家の半藤一利の言葉「ずっと戦後であってほしい」
2021年の夏は、戦後76年を迎える。 明治維新を経て誕生し、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、第二次世界大戦に向かっていく当時の日本について一部を抜粋して引用する。 盧溝橋事件から第二次上海事変へ 1937(昭和12)年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍部隊が夜間演習中、突然、銃声が鳴り響いた。点呼すると、一人の二等兵が見当たらない。日本軍部隊は中国軍(国民革命軍)の攻撃と断定して直ちに応戦した。 その後、兵士は見つかった。一時は緊張が高まったが、小規模な衝突に終わり、7月11日に現地で停戦協定が成立する。日中両政府は「不拡大」の方針を示し、事態は一旦収束に向かった。そんな期待は裏切られ
第一次世界大戦とユダヤ人 戦後の通史などでは、第一次世界大戦にユダヤ勢力が関与したことは一切触れられることがないのだが、戦前の新聞には、その点について明確に指摘されている記事がある。 戦後の教科書や通史には、第一次世界大戦の原因について、サラエボでオーストリアのフランツ・フェルディナント大公がセルビアの青年に暗殺された(サラエボ事件)ことがきっかけとなって、オーストリアがセルビアに宣戦布告し、その後ヨーロッパ列強が参戦したように記述されている。しかし、戦後の通説とは大きく異なる解説が、戦前の新聞には書かれていることを紹介したい。 満州日日新聞 昭和16年12月2日 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 上の画像は、昭和16年12月に満州日日新聞に連載されたユダヤ問題についての解説記事だが、連載の三回目に長谷川泰造は、第一次世界大戦の原因についてこう述べている。 長谷川 近世史を繙(ひもと)
前回記事で、コミンテルン(1919年にレーニンの指導のもとに創立された共産党の国際組織)による日本赤化(共産主義化)工作が進み、昭和七年に五・一五事件が起きた記事までを紹介した。赤化工作は軍部と青年に向けて重点的に行われていたのだが、対策を講じても青年の赤化は進んでいった。 昭和7年12月15日 報知新聞 所蔵:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 「師範学校」というのは戦前のわが国の初等・中等学校教員の養成学校であったが、都下小学教員の間に強力な極左組織網が存在していることが明るみに出て四十名が検挙されたことが報じられている。赤化工作を仕掛ける側からすれば、青年に対する工作は師範学校が重要なターゲットにされたことは、当然のことだと思う。 その過半数を出している豊島師範学校では現在の師範教育制度を再吟味した結果、赤化教員の多くは若年者で在学中は大多数自宅その他から通学していた生徒なることが
長期紛争への前哨戦 私は柏市に転居して以来、柏市はもとより隣接する野田市・我孫子市など(東葛飾地方)の歴史に関心を持ってきた。野田市関連では、戦前最長の218日にも及んだ野田醤油(現キッコーマン株式会社)の労使紛争と関東大震災時に発生した福田村虐殺事件(当時の香川県三豊郡、現観音寺市および三豊市の薬売り行商人15人のうち、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9人が斬殺された事件。妊婦の胎児を含め10人とする見方もある)に強くひかれるものがあった。2つの事件は、地元野田市ではタブー視するか「黙して語らない」傾向にあった。 まず、日本の醸造界を代表し世界に飛躍するキッコーマン(本社・野田市)が、古い因習を断ち切るためにも通過せざるを得なかった「労働争議」を考えてみたい。長期ストの前哨戦から話を始める。 大正8年(1919)1月、野田町(当時)に本社・工場を構える野田醤油の労働者1300人が給与
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戦火を超え今に残る、 築87年のヴィンテージアパート 『和朗フラット』に空室が出ましたよ! 東京の港区麻布台にありながら 昭和初期の趣を残し この路地裏だけ タイムスリップしたかのような 感覚に陥ります。 物件ファンにも度々登場している、 建築好きにはお馴染みの大人気アパート。 漆喰の壁に、 丸窓のついた黒い木製ドア! 幾何学的な枠のアーチ窓! 生い茂る植栽も相まって、 なんて、なんて見目麗しい モダンな佇まい! 昭和初期にこのハイカラなデザインを、 しかも自邸としてではなく集合住宅として 作り上げたことに驚きです。 なんて前衛的なんだ… この建築に惹かれて、と言う 入居者が未だ絶えないそう。 そうして代々、管理人や住人さんたちが 大切に住み継いできたことが 内装からも伝わってきます。 単に新しくリノベーションされることなく、 外観のイメージをそのまま 内装にも残すお部屋。 窓際にはなんと
新聞は戦争を止められるのか 昭和戦前期の教訓に学ぶ 保阪正康さんインタビュー 戦争の「盾」~ジャーナリズムの責任~(2) 保阪正康 ノンフィクション作家 昨年末、タレントのタモリがテレビ番組で来たる2023年について問われ「新しい戦前になるんじゃないですかね」と発言したことが話題になった。「戦前」といえば1930年代。当時のジャーナリズムが、戦争に突き進む軍部の暴走を止められなかったのはなぜなのか。昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんに聞いた。 明治時代には政府批判も ――日本のジャーナリズムが国家権力と相対した歴史について教えてください。 保阪 まず明治時代について述べたいと思います。明治初期の言論には、草創期の活力があり、政府批判も活発だったからです。昭和戦前期にはジャーナリズムはほぼ「全滅」し、新聞などのメディアが国家の宣伝媒体と化してしまいました。 幕藩体制が崩壊して明
2023年04月15日01:00 戦前・戦後のモノクロ写真を淡々と貼る(女性中心でな) Tweet 1: 名無しさん@おーぷん 2015/06/07(日)20:29:22 ID:i1Q 転載元:http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1433676562/青葉「何人死んだ? 2人くらいか?」警察「36人」青葉「え?」警察「36人」ではスタート 昭和10年頃8月28日 日本橋三越屋上に集う従業員たち 2: 名無しさん@おーぷん 2015/06/07(日)20:31:48 ID:PkR ぶっちゃけ美人いないね 3: 名無しさん@おーぷん 2015/06/07(日)20:32:52 ID:i1Q 戦前?2月25日鷺の湯旅館にて >>2 いないな、顔が四角い 475: 名無しさん@おーぷん 2015/06/11(木)01:40:11 I
憲政記念館の展示が示す「いつか来た道」 1月20日より第201回国会(通常国会)が幕を開けました。その傍らで、1月8日より憲政記念館で開催中の企画展示「政党政治の道のり-勃興と挫折-」。 自由民権運動の旗手・板垣退助をはじめ原敬、浜口雄幸や犬養毅など13名の人物を取り上げ、また取り上げている政党はおもに戦前の二大政党、立憲政友会と立憲民政党が中心となっています。 いずれも現在は存続せず、その歴史は「大きなかたまり」を志向した翼賛政治会に呑み込まれる形で終焉を迎えていますが、果たして原因はそれだけだったのか。展示はそうした示唆を与えてくれます。展示パンフレットには開催趣旨が添えられていますが、なかでもある一文が目を引きました。 日露戦争後、第一次世界大戦にかけて、大衆が政治参加を求める声が高まり、政党の力も強くなりました。 1918年(大正7)の米騒動後の混乱で官僚閥の寺内内閣が倒れた後、政
現在は農地や工業団地が広がり、のどかな風景が見られる福岡県の筑後地方北部。しかし、同地にはかつて世界屈指の規模と呼ばれた広大な飛行場がありました。都会から遠い九州の地になぜそうした施設ができたのでしょうか。 100年前に誕生した巨大飛行場 2023年現在、日本国内で最大の飛行場は東京都大田区の羽田空港(東京国際空港)になります。その規模は大田区の面積の4分の1を占める約1520ヘクタール。4本の滑走路と3つのターミナルを有しており、2019年には乗降客数で世界5位になっています。 このように今や世界屈指の巨大空港となった羽田空港ですが、開港したのは1931(昭和6)年8月のこと。当時は東京飛行場という名で開設されています。いうなれば、羽田空港は開港してからまだ100年経っていないのです。 むしろ、羽田空港よりも10年以上前に開港し、かつては「東洋一の飛行場」と呼ばれた巨大な飛行場が九州にあ
10月末の火災で主要な施設が焼失した那覇市の首里城。火災直後から「かつて正殿の屋根瓦は赤だったのか、黒だったのか」という論争が起きている。沖縄といえば、赤い瓦の町並みで知られ、焼失前の正殿の瓦も鮮やかな赤だったが、戦前に屋根が黒かったことを示す写真や映像を根拠に「黒」で復元すべきだという声がソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で広がっているのだ。赤なのか黒なのか。長年沖縄の古瓦を研究してきた上原靜・沖縄国際大教授(考古学)に聞いた。【大村健一/統合デジタル取材センター】 10月31日未明に発生した火災で、那覇市北東部の丘の上にある首里城は正殿や南殿、北殿が全焼するなど7棟9施設が被害を受けた。首里城は過去に少なくとも4回、焼失したとされる。太平洋戦争末期の1945年5月には沖縄戦で焼け落ち、しばらく琉球大学のキャンパスとして利用されていたが、大学移転後に沖縄の本土復帰20年を記
紀藤弁護士、旧統一教会への献金に日韓格差指摘 戦前の「罪」理由に 拡大 弁護士の紀藤正樹氏が15日、日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」に出演し、宗教団体・世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の信者による献金が日本と韓国で大きく違う点を指摘した。 番組では、安倍晋三元首相を銃撃し、殺害した山上徹也容疑者の母が傾倒した旧統一教会について取り上げた。MCの宮根誠司が「日本人だけがとにかく『献金、献金』っていう風に、法外なお金を払わされてるって聞くんですけど?」と質問。紀藤氏は「日本だけが特別扱いなんですけど、日本人だけが高い商品や金銭を要求されるということで、非常に差別的、日本だけの独自事情なんですよね」と認めた。 教会は日本だけで霊感商法を行っているとし「教義的な理由として『日本が戦前に韓国を併合し、韓国に攻め入った、それが日本人の罪なんだ』と。『罪を清算するために日本人は韓国に貢献しなければ
柳条溝鉄道爆破事件 前回の記事で山県信敬 著『少年満洲事変と上海事変』で、満州事変の発端となった昭和六年(1931年)九月十八日の柳条溝事件が起きるまでの支那の国情について書いた。今回はその続きである。 萬寶山事件 に次ぐに、中村大尉虐殺事件があり、ために、我が軍部並びに国民の激昂が、その極に達していた時に、またしても起こった大問題がありました。 勿論、既に、それ以前からも、それに類した幾多の障害があったのでありました。例えば、八月十六日には、奉天駅北方に於いて、列車に投石して、窓硝子を破壊した事件があり、また、同月三十一日には、北大営北方の文官屯付近で、行進中の列車から、貨物を多数取り出したこともありました。 越えて翌九月になって、その中頃、奉天の北方、工業地区の北側に於いて、日本付属地に対抗して、散兵壕を構築したり、或いは、実弾射撃などして、何らかの示威的行為に出ていたのでありました。
タイのバンコク郊外に、戦前の日本で建造された軍艦が保存されています。バンコクから電車、船、さらに“原付”を乗り継ぎ出会えた軍艦は、ほぼ”そのまま”の姿。世界に2隻しかない貴重な存在です。 タイに現存する日本製の軍艦「メクロン」へ会いに行く 第二次世界大戦で敗北するまで、日本の造船業界は多数の軍艦を建造しましたが、その多くは戦没または敗戦に伴う武装解除の際に解体されてしまいました。このため2023年3月現在、建造当時の姿のまま保存されている軍艦は、日本では横須賀の記念艦「三笠」だけです。 しかし、実はもう1隻がタイ王国に現存しています。軍艦の名は「メクロン」。首都バンコク郊外のプラジョンジョムクラオ要塞で保存されている同艦を訪ねました。 拡大画像 プラジョンジョムクラオ要塞に静態保存されている「メクロン」(竹内 修撮影)。 電車→渡船→バス…じゃなくて“原付”だった バンコク市内からプラジョ
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