2012年01月12日掲載 尹 : 「わたくし」を再構成していく上で、環境と場が必要だという話でした。それは、あらゆる空間と時を、自分を書き換えていく環境なり場として見立てるとも言えますよね。 森田 : 最近、埴谷雄高のドキュメンタリーを見たんです。日本酒を飲みながらしゃべっているからどんどん酔っ払っていく様がおもしろいんですが、その中で埴谷雄高は「日本人は観察が粗い」と言っていて、そこがすごく興味深かった。 彼がいうには、日本人は桜の花が散ったら「桜の花が散った」としか表現しない。これがドイツ文学となると、一弁、二弁と散って行って、三つめの花びらが落ちるか落ちないかというときの、その花の心を歌おうとする。それこそが思索の本来だというわけです。 花びらはしゃべれないから、「おまえに代わっておまえの心を語ってやろう」。それが文学者の仕事だというのです。科学的に考えたら、三つめだろうがな