これである。 はてなブックマーク - Yahoo!ニュース - 時事通信 - イスラムは「邪悪」と発言=ローマ法王発言に怒り広がる うっかり報道を真に受けて[これはひどい]といってしまったのだが、ブクマでも指摘にあるようにどうも様子がおかしい。 そして、原文をのぞいてみたところ、 CNN.com - Pope: Conversion by violence not of God - Sep 12, 2006 どうやら問題はこの「要約報道」にあったようなのである。 ローマ法王ベネディクト16世が、イスラム教が本質的に暴力を容認する宗教であるかのような発言をし、イスラム諸国から怒りの声が相次いでいる。(略) ローマ法王は12日、訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判に触れ、「(イスラム教開祖の)預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪
ところでファンとオタクとマニアの違いは何だろう。 いや、別に教えて欲しい訳ではない。それなら『はてな人力検索』にかけるって。 ファンでもマニアでもないその立ち位置を理解して、自称したりレッテル張ったりしている人がどれほど居るか。 昔は〇〇ファンとか××マニアと呼ばれていたジャンルが、今では酷く曖昧にオタクの領域だと思われている。そして「オタク」は増えている。 「オタク」という語の含む意味が曖昧で寛容だった故の、氾濫。 なんだ、なら旧来のオタクは結局マスコミに敗北したと言う事か。マスコミの流通した「オタク」像に勝てなかったんだ。 ファンほど受身一辺倒ではなく、マニアほど倒錯には至っていない。そして何より幅が広い。だから「オタク」。便利な言葉「オタク」。でも実態がよく分からない。けれど服装はダサくて、喋りは吃音交じりらしい。どうやら秋葉原や夏と冬の有明によく集まるらしい。普段は人の話を聞かない
9月14日は、岡山市に初めて 「メイドカフェ」 が出来た日です。 思えば昨年の今頃。 「岡山に何かメイドカフェっつーものが出来るらしいっぺよ 」(ここまで方言きつくありません) と、私を含め不特定多数の大きいお友達が、期待に胸膨らましていたのが今となっては 良い思い出なのかそうじゃなかったのか。 「しゃるろっと」 岡山市表町3-7-15、ファミリービル2F (2005年9月14日オープン) ごめんなさい、データを縮小したらモアレが凄いことになってしまいました orz 岡山で一番初めに出来たメイドカフェ。 オープン初日は我先にと大きいお友達の列が まるで ドラクエの発売日を思い出させるくらいに並んでいたのを 思い出します。 「参考レポ」 今まで何度か話にはしてきたのですが、たかが岡山市でたった人口67万人という多いのか少ないのか、 凄い中途半端な地域 にいくら東京や大阪で人気を博してきている
追記、当ブログ恒例、ここより優れたエントリ紹介。 NaokiTakahashiの日記 - 作家性よりも作品性だと思う。 [ [■ Takahashi's Web ■] ] 自分のヤツは批評家を論じるために作家性を持ち出したから、ああなったので批評そのものに於ける作品論なら作品性の方が適切かも。 批評家を説明するのに作家性を持ち出すと端的で判りやすかったので。 批評は作品性というより、作家性のカタマリなんで、そんな苦しいオレの言い訳。 http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060918/p1 [single F - 試作実験用。暫定版。-] >批評家と批評に必要なのは「批評性」。批評性だけでは売れなかったりするから「作家性」を付加したり(そも、批評っつーか評論はそれはそれで作品でもあるので、作家性や作品性を分離不能だけど)もしたりも。 あれかもしれ
えー、『消費されるブログ記事』から派生した話題が、ことのほか盛り上がったのですが、一つだけちょっと寂しいと言うかむなしい事があります。 折角、濃い言及(リンクや引用含)をしていただいているのに、トラックバックをしてくれない。それも複数箇所ある。とても参考になるイイ記事ばかりで、たいへん勿体無いので、あえてリンクします。 ・F's Garage:消費されないブログ記事を書こう ・Mugi2.0.1 - 種を仕込む人になりたい ・歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 本物の書く人は己自身に向かって書くものなのだ ・最終防衛ライン2 - ブログの記事が消費されるなら、何度でも同じ事を書けばいい ・チミンモラスイ? : ブロゴスフィアのブログ消費論 その0 あのね、そりゃ、トラックバック送る送らないは各ブロガーの自由ですが、これだけ関連の濃い記事書いて、相手に直接伝えないってどーゆー事(もし、送ったけど反映さ
日本の政治家が母校での講演で口が緩んで人種差別発言をすることがある。緩んでいるんだからまさに本心、というわけで、ますます問題になる。 目下のローマ法王の発言問題もそんな感じなのかな、と勝手に思っていた*1。 私が最初にニュースを知ったのは、トルコ系フランス人の友人からだった。なーんか、フランスで騒いでいる、というような話で、彼のヒトコト解説は「ローマ法王がモハメッドを非難した」というような上の時事通信の記事と同じような要旨だった。よくまあ、そんな無茶するなあ、と思ってそのままだったのだが、さっき公式英語訳を読んでみた。06年9月12日付の演説である。バチカンのウエブサイトに掲載されている。聴衆はヘッダーに書かれているように、南ドイツの大学の人たち。内容はかなり難解である。このまま喋っているのを聞いても、私にとってはなんたらの耳に念仏、である。論旨が難解というよりも回りくどいいいかたをするの
電車に乗っている若い衆を見ていてカネゴンが一方的に思うのは、びっくりするぐらい「呪い」とか「恨み」とかそういうものに縁がなさそうだということ【呪いに満ちたおれカネゴン】。人類史上、これほどまで呪いや恨みと無縁でいられたことはかつてなかったのではないかと【年をとったらおれカネゴン】。カネゴンの悪い癖で、そこにあるものより、そこにないものの方が気になってしまう。 しかしながら、呪いや恨みは本当にすべて人の心から完全に排除し、人の心は春のごとくのどけからましくあるべきなのだろうか。何の科学的根拠もないのだけど、有毒な金属元素もごく微量ないと人体が正常に機能しないように、誰も見ていないところで他人を心底から呪い倒し、無力な自分を徹底的に恨んで恨みぬくというプロセスをどこかで通過しないと、満面の笑顔で遠くの民族を浄化しまくることにまったく抵抗を覚えなくなってしまいそうでカネゴンいらぬ心配をしてしまっ
kiyaさん所の「見捨てないで」という言葉の裏に潜む強者の論理という記事へのブクマコメントについてです。 2006年09月16日 umeten 非モテ, 身体と精神, 批評 幼少期の愛情不足云々という議論には感心しない。幼児期健忘という現象もあるし、育児や教育という視点の強化は、むしろ自己中心性を強化し、他罰的志向を強めることもあるのではないか。 2006年09月16日 rangelife422 人間 性向的な部分もあるが、この心理状態は多くの場合幼少期における愛情に対する飢えから生まれる。即ち幼児期の全能感が失われる際の周囲の状況が強く影響する。本質的に別物と考えるべき。 これは私へ宛てた物という事でちょっくら書きます。 umetenさんの危惧は尤もだと思います。そういうミスリードになるのは私としても本意ではありません。ただこの「幼児期の全能感」と言うのは、記憶するしないに関わらず、等し
空気を読めないひとに「空気読め」と発声することは、それが「空気を読むべき場である」と空気によって伝えるパフォーマンスに失敗した結果であるから、これは敗北宣言と言ってよい(←「自分(たち)のペースを降り、(すくなくともその一言を発するため)相手のペースに乗らざるをえなくなった」)。 まあ大概のひとは「空気」に対する感覚力と同等の操作力は持っていないわけだから(演技の良し悪しがわかるひとのすべてが、自分のわかる上限の演技ができるわけではない)、その自らの内部のギャップによってやらかしてしまう不粋ってかんじか。で、「空気読んだうえで空気読まない」芸というのは、各人のそうしたギャップにつけこんでリアクションを引き出す立場なので、トリックスターでありまたは肉食側といえるわけだ。さらに、このような空気主義者にとってコミュニケーションとは決闘でなく舞踏会なので、誰が勝とうが負けようがお構いなしに場は続い
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