中原復亮(なかはらまたすけ)は、長州藩・大津郡三隅豊原の農家の子として1843年11月7日に生まれた。 俊応と言う僧侶の長男であったともあり、中原衛門七復亮(中原衛門七)とも言う。 1863年の下関戦争のあと、高杉晋作の発案で、長州藩士と藩士以外の武士や、農民・町民といった庶民からも隊士を募集した混成部隊である「奇兵隊」が創設されると、隊士募集の呼びかけに率先し入隊した。 それから中原復亮は、長州藩士・楫取素彦(小田村伊之助)とも面識を得ている。 中原復亮は勇猛果敢に常に最前線で戦い、敵将の兜を戦利品として持ち帰ったと言う逸話もある 鳥羽伏見の戦いの際、淀堤の戦いで右肩に深手を負う重傷となっている。 明治2年7月に版籍奉還となると、藩知事・毛利元徳は11月25日に藩政改革を断行し、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名を御親兵四大隊2250人に再編。 残りの3000余名は論功行賞などなく解雇した