『ゼロ年代の論点』の終章に関しては、現行ヴァージョンとは違う内容を当初(=昨年末)には計画していた。東浩紀編集長の雑誌『思想地図β』のファンクラブ的位置づけである「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に連載されている宇野常寛の小説「AZM48」についての考察を入れようとしていたのだ。実際、メモもとっていたし、プラン通りに書いていたら、400字詰め20枚くらいになったかもしれない。 「AZM48」は「AZM」が「あずま」を含意しているように、東−宇野周辺の実在する若手批評家たちが変名で大勢登場し「男−男」の絡みが語られるやおい的なパロディになっている。若手批評家たちがつるみ、居酒屋での盛り上がりなどをツイートしたりしている状態は、ホモソーシャル性が批判されもする。それを受けて逆に自らホモセクシュアルを演じてみせる批評的なパフォーマンスだ――そんな理由づけが「AZM48」には、とりあえ
宇野常寛の批評は、内容がどうこう以前にそもそも文章として読むに耐えない。しかしそういうと、「お前の読解力が乏しいからだ」と批判されたりする。バカを言っちゃいけない。日本中を探しても、ぼく以上に宇野の文章をきちんと解読できる人間は多分一人もいないぞ。ためしに、ちょっと分析してみよう。 宇野は、『リトル・ピープルの時代(以下リトピー)』の序盤で、蓮實重彦や浅田彰を批判している。今回は、この部分を扱うことにしたい。 宇野はまず、蓮實らの思想を、次のように要約した。 引用部①――宇野による蓮實・浅田の要約 この「物語批判」的な想像力には、当時日本社会に出現し始めていた消費社会のイメージが重ね合わされていた。「都市」の洗練された空間では貨幣の、情報の、そして記号の「交通」が自動発生して、大きな物語を、あるいは封建的な制度によって規定された自己同一性を解体する―。(『リトピー』、p36) これが要約と
AKB48「恋するフォーチュンクッキー」ミュージックビデオのPLANETSバージョンです。 《PLANETSとは?》評論家で、オールナイトニッポン0(金曜日)パーソナリティとしても知られる宇野常寛が主催する企画ユニットです。雑誌を中心にトークイベント、ブロマガ、ニコ生などさまざまなコンテンツを発信しています。今回は普段からお世話になっている論客や学者さんから、読者のみなさんや裏方まで様々な人に協力をお願いして「恋チュン」PLANETSバージョンを完全自主制作でつくりました。200万部を超える大ベストセラーを生み出したあの人や、「最近出てきたばかり」の、日本で一番有名な起業家のあの人も出演しているとか...!? 《PLANETS vol.8はこちらから》http://www.amazon.co.jp/dp/490532503X/ 《PLANETS公式サイトはこちら》http://waku
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く