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追悼とImprovisationに関するtxmx5のブックマーク (4)

  • 「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン by 金野ONNYK吉晃

    text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野Onnyk吉晃 photos: from Onnyk’s private collection(「ナムジュン・パイク展」の図版目録より)*口絵は、おそらくブレッツマンのデザインによるナムジュン・パイク展のポスター(’63) 「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン(享年82) 二十歳の私は「フリージャズとフリーミュージック」の差異さえわからず、彷徨していた。前衛、実験、ラディカル、即興、過激というのは同義に近かった。ヘンリー・カウもシュトックハウゼンも一緒くたになっていた。 当時はまだ「壁」によって分断されていた西ベルリンに拠点を置くFMP (Free Music Production)は、1969年に創設され、マイナーシーンの代表的レーベルだった。私はペーター・ブレッツマンはその創始者の一人、かつ欧州を代表するミュー

    「ブレない男の想い出」追悼 ペーター・ブレッツマン by 金野ONNYK吉晃
  • 【ミルフォード・グレイヴズ追悼】 ひとつの音、一人の人

    text by Shuhei Hosokawa  細川周平 photo ©1977 Toshio Kuwabara 桑原敏郎 ミルフォード・グレイヴズ(1941-2021)の訃報を聞いて、「世界からひとつ音が消えた」という感慨に襲われた。気取った言い方かもしれないが、それだけ強烈な印象を残した音と人だった。人となりとサウンドがこれだけ一体化したアーティストは唯一無二だったと思う。60年代のフリージャズの開拓者の一人として一般には知られるが、最初の10数年を除けば、ジャズ流にはあまり関わらず、フリー・リズムにもとづく即興を究めた打楽器奏者というほうが全容を捉えているだろう。数度の来日公演の記憶から追悼してみたい。 初めて聴いたのは1981年のデレク・ベイリーと田中泯のトリオ(MMD)、表現手段の違う三者が対等に反応し合って、即興の極みに達したようなパフォーマンスに圧倒された。〈踊る〉と〈叩

    【ミルフォード・グレイヴズ追悼】 ひとつの音、一人の人
  • R.I.P. Milford Graves | ele-king

    ジャズ・ドラマーのミルフォード・グレイヴスが去る2月12日、難病の心疾患のために亡くなった。没年79歳。 グレイヴスは、フリー・ジャズにおいてもっとも際立ったドラマーだったのだろう。ぼくよりもひと世代上の、音楽(ことジャズ)に特別な思いを馳せている人たちはほとんどみんなグレイヴスが好きだった。間章や竹田賢一のような人たちの文章を読んでいたし、ぼくは松岡正剛さんからも話をされたことがあった。そう、だから1993年のたしか初夏だったと記憶している。土取利行が企画したライヴ公演に行かない理由はなかった。 もうひとつぼくには特別な理由があった。その年、ぼくは20代最後の1年を、大袈裟に言えば24時間テクノを聴いているような生活を送っていた。隔月で海外に行くような生活だったし、雨だろうが雪だろうが毎週末をクラブで過ごし、文字通り、寝る間も惜しんで聴いていたのではないだろうか。石野卓球との『テクノボン

    R.I.P. Milford Graves | ele-king
  • 小杉武久 様 – JazzTokyo

    text by Kazuo Imai 今井和雄 小杉さんご逝去の悲報に接し、心より哀悼の意を表します。 私はこの悲報を聞いて動揺しました。 そして、小杉さんが私にとって大切な存在だったのだと改めて感じています。 私は1971年頃に日比谷野外音楽堂で偶然にも「タージマハル旅行団」を観ることになりました。その頃の私は、 いろいろな音楽にはそれぞれモデルがあって、そのコピーをすることで音楽が作られているように思えて、何か自由ではないと感じていました。しかし、「タージマハル旅行団」の演奏は、竹棒をカラコロと落としたり、小さなクッションをパタパタ叩いたりと、一見では音楽と思えない行為を音楽として演奏していました。それを観て私は、音楽をする時は何をやっても良いのだと確認できたようで嬉しくなりました。その体験はいまでも忘れていません。 その後「20世紀の音楽をたのしむ会」というシリーズのコンサートに「タ

    小杉武久 様 – JazzTokyo
    txmx5
    txmx5 2018/11/11
    “text by Kazuo Imai 今井和雄”
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