DJ・プロデューサー・教育者と様々な方面からデトロイトを支えるレジェンドが様々なトピックについて語る
DJ・プロデューサー・教育者と様々な方面からデトロイトを支えるレジェンドが様々なトピックについて語る
デトロイト・テクノは、複数の位相において起点となり、価値観を更新したという意味において、ターニング・ポイントであり、ビッグバン(はじまり)だった。都市のレポートとしての音楽、都市という牢獄から脱出する術としてのベッドルーム・テクノ、ヨーロッパとアフリカの衝突、ポスト・ブラック・ナショナリズム……、ある意味ではより民主主義的なインディ・シーン、いち個人いちレーベルの現代の先駆けでもあった。 クラフトワークは理解できても「エイフェックス・ツインの音楽はどうしてもわからん」という御人はいまも少なくなく、しかし、その“てんで話にならない”音楽は、この30年間で膨張し、がっつりとひとつの価値体系をモノにしている。その契機となったのが、デトロイト・テクノだ(現代ではさらに新たな価値体系が生まれつつあることは、OPNを聴いている人はうすうす感じているだろうけど、しかしそれはダンス・ミュージックではない)
廃墟、破綻、暴動、モーター・シティ。デトロイトと聞いてテクノ以外に対となる言葉はこんなとこだろう。愛、暖かい光、力強さ。そしてその間にある荒廃。眩しいぐらい前進する言葉が並ぶが、わたしが見たデトロイトは、まさにそれだった。乱反射する輝きに、荒廃する街は少し滲んで見えた。 「デトロイト市財政破綻」のニュースが流れた直後の、7月31日から8月5日までのあいだデトロイトに滞在した。そんなにすぐに街に何か変化が出るわけではないとわかってはいたが、わたしは少々ナイーヴな時間を成田からデトロイトに到着するまでのあいだ過ごした。到着後、滞在予定のモーテルに向かう車内から外を眺めていると、瞬きをするように目に廃墟が飛び込んでくる。生気がなくなっている街には夏が似合わないな、と思いながら車に揺られた。しかし、この日からの毎日は報道されている「危険な街デトロイト」とはほど遠いものだった。 水面が輝くデトロイト
○ Part 1 Featuring : アーティストと音楽の関係に内面から迫るインタビュー ○ デトロイト・テクノ第二世代の筆頭株Carl Craigは、驚異的なペースで、69、BFC、Designer Music、Paperclip Peopleなど様々なソロ名義、Innerzone Orchestra、Urban Tribe、The Detroit Experimentといったユニットの作品やクラブ・アンセムとなったリミックスなどを大量に世に送り出してきた天才的プロデューサー。特にジャズのエッセンスを色濃く感じさせる作風は、唯一無二である。 私の初期の音楽体験は全て、兄を通してでした。彼はギターを持っていましたが、ベースが弾きたいと言って、弦を二本取っていました。兄がいない隙を見計らって、僕もこっそりそれを弾いてみていました。 僕が育った頃、デトロイトの犯罪率と殺人率はとても高く、僕
シェラード・イングラム、またの名前をDJスティングレー、より多くの音楽ファンのあいだではアーバン・トライブの名で知られる男......それはホアン・アトキンスからはじまるもうひとつのデトロイト・テクノである。それは地上を呪ったドレクシアであり、アメリカを"ファシスト・ステイト"と定義したドップラーエフェクトであり、そして"モダン文化の崩壊"をデビュー・アルバムのタイトルにしたアーバン・トライブ、すなわちオリジナル・ドレクシアの3人のメンバーであり、そのうちのひとりがシェラード・イングラムというわけだ。 ドレクシアの死後、つまりゼロ年代以降、これら"もうひとつのデトロイト・テクノ"は、主にUKの〈リフレックス〉、ベルリンの〈トレゾア〉、ミュンヘンの〈インターナショナル・ディージェイ・ジゴロ〉、あるいはオランダの〈クローン〉によってプロモートされている。〈リフレックス〉はドレクシアの変名トラン
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