タグ

ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (18)

  • ララビアータ:田中聡の暴言 - livedoor Blog(ブログ)

    私はいままで新聞を取ったことがないが、新聞を無益なものなどとは考えない。世の中の動きを知るうえでは、ほとんど役には立たないが、新聞の動きを知るうえでは有益である。先日、行きつけの定屋で読売新聞(2日朝刊)を見たら、例の防衛省の田中聡沖縄防衛局長の暴言についてなかなか面白い動きを見せていた。 琉球新報の普久原均編集局次長が、読売新聞の取材に対し、「著しく人権感覚を欠いた発言で、広く県民に知らせるべきだと考えた」と回答。記者が懇談の場で田中氏にオフレコの撤回を求めなかったことについては、「想像できないような発言に記者が驚いてしまったため、その場で田中氏にオフレコ解除を申し入れることはしなかった」としている。 とある。極めて興味深い記事である。読売の記者は、琉球新報によるオフレコというコードの違反をとがめ立てているのだ。しかし、そこに同席した琉球新報以外の記者たち(読売の記者も含む)は、どうし

    ushiwatat
    ushiwatat 2011/12/03
    |日米戦争での我が国の敗戦を「物量作戦に敗れた」と言う人がいるが、まったく浅薄な理解である。||権威主義的体制と、||みみっちい「日本精神」が、たくましいアメリカ民主主義の精神に敗北した|
  • ララビアータ:原発ジプシー - livedoor Blog(ブログ)

    堀江邦夫という方の『原発ジプシー』(1979)というがある。今から30年以上前に刊行されているもので、堀江氏がみずから下請け労働者として原発作業に潜入し、その現場の実態をレポートしたルポルタージュである。高度経済成長のただ中、その裏側で厳しく危険な下請け労働がそれを支えていることを克明に記録したものだ。 このが出版された頃、私は堀江さんを個人的にいささか応援したことがあった。どういうご縁であったか正確には覚えていないが、おそらく亡くなった母の後輩か何かのつてであったと思う。氏のお話では、このを出版した頃から、ご自宅に頻々と脅しの電話が入るようになったということである。「家族の命はないと思え」とか、「子どもがどこかで交通事故に遭うぞ」などいうたぐいの電話である。市民個人が気で大きな権力に挑もうとするとき、どんな目に遭うのか、我が国の憲法が保証しているはずの表現の自由が、現実にどの程度

  • ララビアータ:奴隷の反乱 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、普段は怜悧な考察で知られるブログ・サイトやチャット・サイトなどで、「ドストエフスキーに感動した事などない」とか「トルストイなど三流文士だ」などと平気で公言する人々が少なからずいて驚かされる。もちろん、これらの最高水準の文学が、誰にでも隅々まですぐに理解できるとは限らないのは当然のことである。しかし、恥ずかしげもなくこのように公言している者は、どうやら己れの愚かさをアピールするつもりでそう書いているのではないらしく、むしろこのように書くことで「大文豪」を批判・批評したつもりなのである。我々の国は、いつの間にどうしてこんな事になってしまったのだろうか?どうして彼らはドストエフスキーの小説を疑う前に、己れの幼稚な心性を疑わないのであろうか?どうして自分にドストエフスキーやトルストイを論じる資格があるなどと、途方もない考えを持てるのであろうか?オルテガやニーチェなら、これを「奴隷の反乱」と見

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/10/25
    |帰依も畏敬の情熱も持たず、ただ分別臭い青年など、人間として安っぽいとさえドストエフスキーは断言する| |その夢の中にこそ耐え難いあの腐臭という現実が広がっていく|
  • ララビアータ:走れメロス? - livedoor Blog(ブログ)

    『走れメロス』という作品がある。真の友情を描いた名作とされているらしく、小学校か中学校の教科書にも取り上げられたことがあると思う。文学作品として見てもいかにも凡庸な出来で、他の太宰治の作品とは、とても同列に論じることができるものではないと思うが、ここではその点はさておき、『メロス』で描かれたものが友情の理想では有り得ないという点を強調したい。 メロスは暴君に捕らわれて死刑を宣告されるが、親友セリヌンティウスを人質において、妹の結婚式に出席するために出かける。いろんな困難に遭遇するが、やっとのことで時間に間に合うように帰ってくるメロス。暴君の猜疑心に、若者の友情が勝ったのだというわけだ。これからが、いかにも芝居がかってうんざりするような場面が続くところだ。 メロスは、セリヌンティウスに、自分がただ一度、友を裏切ってしまおうかと考えてしまったから、殴ってくれと言う。それに対して、セリヌンティウ

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/06/15
    |友情において、裏切りはそれほど致命的なものであろうか?||重要なのは、それが彼らしい行動であるかどうかであって、それが道徳的に善いかどうかとか、私にとって有利であるか不利であるかといったことではない|
  • ララビアータ:東大闘争 - livedoor Blog(ブログ)

    川上徹・大窪一志両氏の『素描・1960年代』(同時代社)を一読した。 両氏とも元共産党の活動家で、70年代に党中央の査問を受けてドロップアウトした人々である。60年代の学生運動を「日共・民青」の側の視点からはどのように経験されたものなのかがわかって、興味深い。 東大闘争の後しばらくして、それまで駒場民青の表看板であった木元康博氏が、我々の前から姿を消した事があった。我々は「どうもパージされたらしい」と噂しあっただけであったが、実際その頃、党中央で東大細胞を含む大きな一派が査問を受け、徹底的に弾圧されていたのである。その経緯は、川上氏の前著『査問』(筑摩書房)に詳しい。 同時代を共有したものとして興味があるばかりではなく、川上氏と私とはごく希薄な接点があった。1965年日韓条約反対闘争で、日共系「全学連」の大部隊が東京駅構内に座り込み闘争を決行したとき、私はたまたまその隊列にいて、川上氏のシ

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/05/25
    川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(同時代社)。エントリ中の引用より。|鶴は本能でやっているんだろうけれど、本能ってすごいけど悲しくもあるよね。でもその本能を失ったら鶴は鶴でなくなる。|
  • ララビアータ:中東の新たなる危機 - livedoor Blog(ブログ)

    バラク・オバマ氏が大統領になることがほぼ決まりかけてきたことによって、かえって戦争の危機が一段と切迫してきた。 オバマ氏は、大統領候補として名の挙がっている人々の中で、唯一、中東でのアメリカの方針の大転換を決断しうる人物である。マス・コミを買収したイスラエル・ロビーが底力を見せて巻き返すか、ブッシュ一味がまたまた無謀な対イラン戦争に打って出る事がないかぎり、オバマ氏が大統領になるに違いない。 もしそうなったら、いよいよイスラエルの終焉は近づくであろう。 いずれイスラエルが、この地上から消えるなどという私の予想は、まったく非現実だと言う人も多いかもしれない。しかし、建国のはじめから嘘と暴力にまみれ、その存在そのものにおいて一貫して正義に反するような国が、半世紀以上にわたって存続すること自体、とても有りそうもないことではないか?我々は既にソ連の崩壊を経験した。私は60年代から、ソ連の崩壊は不可

  • ララビアータ:ヘーゲル――近代政治哲学の臨界

    ヘーゲル哲学の位置を正確に見積もるためには、補助線として近代政治哲学の諸説を参照することが有益である。一つは功利主義、もう一つは社会契約説。 功利主義にとって、功利とか快苦とは、主観的なものなのか、それとも何か客観的なものであろうか? どんなに医者が「君は痛みを感じるはずがない」と言ったところで、痛い時には痛いと言われるだろう。功利や快苦も、そのように単に主観的なものであって、誤認の余地のないものであろうか? それとも、人にそう思われるだけでは誤認される事も有り得るものなのであろうか? (この点、拙著『魂の美と幸い』で触れたことがある。「魂が自らを幸福だと信じる場合、さながら神経痛が決して我々の神経を裏切らないように、この魂の判断に誤りの可能性はないのか否か?」) しかし功利主義は、例えば財の効用によって、財の交換を説明しようとするだろう。たとえば、私が自分の手持ちのA商品を手放して他人

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/02/09
    ヘーゲルの精神現象学の途を主体の信仰に対峙する知識として見、その難点を挙げる。 |理由と知に基づく近代政治哲学に換えて、決断と信仰に基づく政治哲学が、可能でもあり、必要でもあるのではなかろうか?|
  • ララビアータ:追補 - livedoor Blog(ブログ)

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/17
    |繰り返し自らの戒めともなったのは、次の二つの言葉であった。/「感傷の共有によって慰安を求むなかれ」/「遅い出発を悔いてはならない――問題なのは絶対的現在」|
  • ララビアータ:マルクス家の方へ du cote de chez Marx - livedoor Blog(ブログ)

    ロンドンのディーン街28番地のマルクス家は、今も私のまぶたにありありと浮かんでくる。うらさびれた街角の曲がりくねった路地の突き当たりの一角に、そのアパルトマンはあった。最下層の亡命ドイツ人たちの多く住むその一帯は、けして瀟洒などとはいえなかったが、その擦り切れた数段の階段を上って古い木戸を開けると、そこには別世界が広がるように思われたものだ。壁紙は、古い緑色のフェルトがすっかり陽によって褐色に変色していたし、床の絨毯も、頻繁に歩くところがけもの道のように型がつくほど擦り切れていたが、暖炉には明々と灯がともり、利発な娘たちの笑い声がいつもはじけていた。そして、あのすばらしいジェニーの心のこもったもてなしがあった。面やつれした表情には、つねにこの上ない善意と気さくさをたたえていたが、思えば、気さくさを感じさせたということ自体が、すでに何か庶民的でない雰囲気をたたえていたことを示していたと、今で

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/02
    |それにしても、己れの幸福はおろか、己れの家族の幸福さえも、あたりまえのように犠牲にして顧みないあの連中の運命の苛烈さを見るとき、ある種の感嘆を憶えざるを得ない。|
  • ララビアータ:小阪修平氏を悼む - livedoor Blog(ブログ)

    8月10日小阪修平氏が亡くなられたそうだ。新聞を取っていないので、うかつにも最近まで気づかなかったのである。縁あって氏の謦咳に接したことのある者として、まことに残念である。 私が小阪氏に最初にお会いしたのは、1968年の春である。その年大学に入学すると同時に、民間のキリスト教系の学生寮に入った私の隣室が、たまたま氏の部屋だったのである。当時彼は、劇団駒場に属し、八面六臂の活躍をしておられたと思う。寮を留守にしている事が多かったが、少し話をしただけでも、氏の教養の広さと発想の豊かさに魅せられたものである。それが華麗なレトリックをまとって、次々に万華鏡のように氏の口からあふれてくるのである。もちろん、このような年代での二年三年の差は大きいものであるが、彼の場合はそれだけではなかった。彼が自由な精神で、既に独自な精神世界を持っていたこと、すべての知識をそのもとに掌握しつつ前進していた事が、とりわ

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    |一言で言って、彼はその著作に伺われるよりも、実際にはずっと魅力的でもあり、誠実でもある人物であったと思う。| |ただ、いったん袋小路に入り込んでしまうと、独力でそれを抜け出すのは容易ではない。さらに、ナ
  • ララビアータ:シャコンヌ――ヴァイオリン(その2) - livedoor Blog(ブログ)

    この機会に、私自身のヴァイオリンとのかかわりについて、簡単に書いておこう。(もっとも当のことだけを書くつもりはない。適当に嘘を交えて書かなくては、とても語れるものではないからである。) この楽器を手がけたことのある人で、忌まわしい思い出を持たないような人はまれだろう。苦痛と絶望のみ多い砂を噛むような練習の日々、やがて思い知らされてくる自分の無力と才能の欠如、思い描いた音とかくも著しくたがう録音の残酷な現実、プロであれアマチュアであれ、これらの事実に悲しい諦念と挫折の臍をかまなかったような人は、ごくわずかしかいないに違いない。クライスラーのレコードを聴けば、音程の甘さや技巧の不確かさという点では、現代の音大生ですら満足できないものかもしれないが、それでもクライスラー自身は、そんなことは気にもしなかった様子が伺われる。おおらかな時代だったのである。今ではこのようなことは通用しない。「完璧」を

  • ララビアータ:風立ちぬ - livedoor Blog(ブログ)

    Le vent se leve. Il faut tenter de vivre. しぶとい暑気もいつしか盛りを過ぎて、今年の夏もようやく終わろうとしている。 この夏、政府の高位・高官を歴任した宮澤喜一氏が高齢で亡くなった。氏の歴史的評価などは、あまたの識者が論じるであろうが、ここではごく個人的思い出を述べておきたい。 氏と面識を得たのは、中学一年の時だったと思う。二年の時だったかもしれない。あれから何度も、軽井沢のお宅でお目にかかった。 我々が騒いで椅子の脚を折ってしまったことがあった。その時、ただ家具屋に行って修理を言いつけただけで、我々には何のお咎めもなかったのには驚いた。私の家では、こうもり傘の骨を折ってきただけでも、ひどく叱られたものである。 その頃、氏はフランス語のブラシュアップをしていたようだ。私の耳には、リンガフォンのfrere Jacquesの歌が残っている。時の首相が癌

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    宮澤喜一氏の思い出。|氏は、我々の青臭い議論をもちろん問題にはされていなかったろうが、だからと言って人格的に無視したり軽視したりするようなことは、決してなかった。多分、人の意見を無視するというような習
  • ララビアータ:地の塩 - livedoor Blog(ブログ)

    ようやく今学期の授業が終わった。いつもと別に変わりはない。ただ、今回は15年半勤めた東北芸術工科大学で最後の授業なので、それなりの感慨がなくもない。倫理学の授業が、事務当局の手違いで、補講の授業と重なってしまい、私の教室が急遽変更になったので、授業に出席した学生は三人だけだった。大部分の学生は、休講になったものと思い込んで、帰ったようである。学生諸君には、たいへん申し訳ないことをしてしまった。 最初この大学に赴任した時は、学生ともども新しい伝統をこの地に築くことを、それぞれに思い描いていたと思う。思えば、それは夢のような、ユートピアの可能性を信じることの出来た数年間であった。 今から四十年近くまえ、私自身が学生生活を始めた頃は、ちょうど学園紛争が始まった時代だった。当時の学生の主張が全面的に正しかったとは思わないし、良心的な先生はたくさんいた。そのころ大学当局を厳しく指弾していた学生たちが

  • ララビアータ:寺の経営(教会と信仰) - livedoor Blog(ブログ)

    久しぶりに小学校のクラス会に出たら、寺を継いだ友人や、墓の設計を手がけている建築家の友達と話し込むことになった。今日、寺を維持する経営は、御多聞にもれず、なかなか厳しいらしい。もともと十分な不動産があって、半ば不動産業を兼業できるような寺は別だが、現代人の生活が葬式以外では寺から遠ざかるようになると、十分にお布施を集めるのも難しいわけだ。戒名の文字ひとつについて、なぜあれほどのお金がかかるのか合理的に説明できる人はいないから、このようなところでも遠からず「価格破壊」が起こらざるを得ない。 友人の一人は、仏教界でも宗教改革が必要なのではないかと言う。 だがいかにして? 橋爪大三郎氏によれば、排除された人々は仏舎利を納めた仏塔(ストゥーパ)の周りに集まり始める。彼らは、己の悟りより、悟りを開く前の釈迦(菩薩という)に自己同一化し、菩薩道を目指す事になる。それというのも、彼らには、戒律を通じた正

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/07/28
    |したがって市場で評価されないものは直ちに無でしかなくなるという事態の方が、歴史的に見れば異常であり例外的||近代政治哲学はその根本においてプロテスタント的、または無教会主義的であるということになる。|
  • ララビアータ:不動の動者 - livedoor Blog(ブログ)

    思想史的な仕事をする場合、必要な感覚の一つが文脈的思考というものであろう。イデオロギー的修練を経ていないナイーヴな研究者は、歴史上の思想家たちの言葉をそのまま真に受けてしまって、彼らが生きていた論争的文脈を見落としてしまうものである。それは、彼らが生きていた歴史状況への情報が不足しているということでは必ずしもない。むしろ、彼らが闘っている問題状況の今日的アクテュアリティに対する盲目なのである。 思えばこうした感覚は、小説の読み方に似ている。小説を享受できる能力は、げに、現実とかけ離れた物語の中に、己れの人生の問題を読み取り、逆に現実の中には、様々の理念の可能的実現を構想するものである。現実生活に完全に埋没しているようなところには、現実を別様に意味づけたり、別様の可能性を見たりする態度は、育ちようがないからである。そのような場合、「現実」は、日常経験の断片的印象の奔流に還元されてしまう。 そ

  • ララビアータ:戦陣訓 - livedoor Blog(ブログ)

    断固として闘はねばならぬ時、最強の戦術は礼節であり、最強の武器は敬語である。 手段は目的を正当化する。ジョークで人を攻撃する場合、しゃれたジョークでさへあれば、人を傷つけることは許される。 怒りは貴重なものだから、浪費してはならない。 味方であるといふだけで、退屈な連中に気を許してはならない。 刺された相手も感心するような手さばきで、匕首を相手の急所に突き刺せ。 人格攻撃を避けるやうな腰の引けた者は、はじめからアリーナに立つ資格なし。 出来れば最も尊敬できる敵、出来なければせめて最強の敵を選んで闘へ。 実際の戦争では、負けないことが必須であり、常に妥協こそ勝利であるが、精神の闘ひでは、妥協は敗北以上に敗北である。 敵には恥をかかせてやらねばならない。それゆゑ、恥を知らぬ輩を敵にしてはならない。さういふ連中は、いかに不快でも無視する他はない。「ドブネズミと見なして、彼らに善行を施せ。」 闘ひ

  • ララビアータ:イシハラをこそ蹴り出そう - livedoor Blog(ブログ)

    イシハラが街頭演説中、外国人旅行者から批判されて、いかにも小心者らしく目をしょぼつかせながら、ブザマに「出て行け」としか言えない有様をテレビで見た(映像を再現してチェックできないので不正確かもしれない)。この人には、およそ自分と違う立場の人とコミュニケートする意志も能力も欠けている事が、画面からありありと伺われ、恥ずかしいかぎりである。ちょっと批判されただけで逆上したり、切れたりする小心なチンピラたちの支持を集めるのも、そのあたりに原因があるのだろう。 オリンピック招致の迷妄に関しては、私はあまり心配していない。国際社会がイシハラの東京にオリンピックを許すはずがないからだ。ただ私が心配しているのは、短期のうちに巨額赤字を出しても無謀な突進を続けるシンタロウ銀行(新銀行東京)の行方についてである。今のうちに、これに何とかストップをかけなければ、都民の経済的負担は恐ろしいものになってしまうだろ

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/04/05
    |世のいわゆる「市場原理主義」の経済学者が、この政策に対して何も言わないのには、あらためて「正体見たり」の感なきを得ない。こういうのをこそ曲学阿世と言うのであろう。|
  • ララビアータ:我が魂より我が祖国を愛する - livedoor Blog(ブログ)

    山形新聞のコラムで、マキャヴェリの言葉を取り上げた。冒頭の引用は、マキャヴェリの書簡集からのものである。他にも、彼の『フィレンツェ史』(第三巻)の中に、これに似たものがある。「市民はそこで、自分の魂よりも祖国に対してこそ、それほど多くの価値を置いたのだ。」教皇からの破門をも恐れず、祖国フィレンツェの為に戦った市民たちをマキャヴェリは賞賛したのである。新聞に書いた原稿を再現することはできないが(たぶん今週土曜日に掲載される)、ここではそれとは別の角度から、この言葉の含意を考えてみたい。 イスラム教でスンニ派とシーア派の分裂の経緯をご存知であろうか? 預言者ムハンマドの死後、四代を正統カリフ時代と呼ぶようだが、そこではイスラム共同体(ウンマ)の総意で代表(カリフ)は選ばれていた。この第四代カリフ、アリが暗殺された。その結果、ウマイヤ家の世襲王朝が生まれる。ウマイヤ家は、ムハンマドに最後まで抵抗

  • 1