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三国志に関するwerdyのブックマーク (19)

  • 『三国志:字【あざな】の謎 - 伯仲叔季』

    これは兄弟順に付けられる、字の1文字目に関する法則です。 字はたいてい2文字ですが(これも例外がいくらでもあるのですが)その1文字目。兄弟であれば必ずこうしなければならないわけではないのですが、これらが付いていればその順番が分かるというお話です。 日でいえば、太郎、次郎、三郎、四郎のようなものです。 長男なのに次郎とか、三男なのに太郎というのはあまりないですね。例外のひとつとして、野球の「イチロー」さんは、次男なのに鈴木「一」朗になっています。また、「真田幸村【さなだ・ゆきむら】」の別名で知られる真田信繁の幼名は「源次郎」。次男なのでそれは分かるのですが、兄の伸幸(後の信之)の幼名は「源三郎」と、逆になっています。真田家では長男が夭折するという言い伝えがあり、それを避けるため、長男にも関わらず「三」となっているのです。 逆に、長男だったら太郎あるいは一郎としなければならない、ということは

    『三国志:字【あざな】の謎 - 伯仲叔季』
  • 呂乂 - Wikipedia

    呂 乂(りょ がい)は、中国三国時代の政治家。字は季陽。荊州南陽郡の出身。父は呂常。子は呂辰・呂雅。 略歴[編集] 劉備は入蜀後、塩と鉄の専売で利益を得るため塩府校尉を設置した。塩府校尉となった王連は、呂乂を杜祺・劉幹とともに招聘し典曹都尉に任命した。 その後、呂乂は新都・綿竹の県令を経て、巴西・漢中・広漢・蜀郡の太守を歴任した。後方にあって物資や人員を前線に送り、諸葛亮の北伐を支えた。また、任地の行政は善政と呼べるものであったため、住民から慕われた。 後に中央に召されて尚書となり、延熙9年(246年)に没した董允に代わって尚書令に任命された。職務を滞りなく行い、門の前で人が待つようなことはなかった。贅沢はせず、清廉・謙虚で言葉は少なく、仕事は簡明で煩雑さがなかったので、清能と称された。しかし、法に厳格で法律至上の俗吏を好んで任用したため、以前より評判を落とした。 延熙14年(251年)に

  • 三国志学会

    三国志学会は、研究者ばかりでなく、広く一般の方々に門戸を開いております。 入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。 また、住所変更された会員は、 までお知らせください。 三国志学会会長  石井仁 (駒澤大学教授) 副会長  牧角悦子 (二松學舍大学教授) 副会長兼事務局長  渡邉義浩 (早稲田大学教授)

  • ちくま三国志をけなす会

    会員規則 [鉄の掟!] けなす会の会員は以下の規則を守るべきです。 会員規則を守らなければいけない。 もし規則をやぶった場合には除名したりしなかったりするかも知れない。 会員規則は不定期に改定されるかも。 ちなみに条文の番号は規則が改訂されるたびにころころ変わります。 自分が会員であることを外部に表明してはいけない。 けなす会は世界征服をもくろむ秘密結社なので、あくまで隠密行動を心がけること。死して屍拾う者なし。 ちくま依存症の人を批判してはいけない。 ちくま依存度チェックで依存症と認定された人、それにチェックしなくても認定されそうな人のこと。 ちくま三国志をよく読むこと。そして愛しなさい。 読まずして批判することなんてできませんわい。ましてや愛することを知らずして生きていることに意味があるでしょうか。 まあ、とりあえずお茶でも飲んでくつろいでみるのがオススメ。 熱くなるとロクなことになり

  • 三國志/卷52 - 维基文库,自由的图书馆

    werdy
    werdy 2012/11/25
    呉書 張顧諸葛歩伝。“顧君不言、言必有中”は、論語 先進第十一に閔子騫を評して、“夫人不言、言必有中”とあるのを踏まえたものか。
  • 孫邵 - Wikipedia

    孫 邵(そん しょう)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は長緒。青州北海郡出身。呉の初代丞相。 生涯[編集] 身長は8尺あったと伝わる。孔融から功曹に採り立てられ、劉繇に従い江東へ下った。その後、孫権に仕えて廬江太守・長史などを歴任し、よく外交政策を提言した。黄武元年(221年)、張昭を押し退けて初代丞相となり、威遠将軍・陽羡侯となった。一時張温と曁艶に讒言され辞意を表明したが、孫権の許しにより復職した。 黄武4年(225年)夏5月、63歳で没した。後任には顧雍が任命された[2]。 呉の初代丞相を務めたほどの人物でありながら、『三国志』呉志には伝が立てられておらず、詳細な事績は呉主(孫権)伝において裴松之が引用した『呉録』に記されているのみである。これは、陳寿の書いた『三国志』呉志 が韋昭らの書いた『呉書』に基づいているからだとされており、その韋昭が孫邵と折り合いの悪い張恵恕(張温)の

  • 建安文学 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "建安文学" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年1月) 建安文学(けんあんぶんがく)は、中国後漢末期の建安年間(196年 - 220年)、実質的な最高権力者となっていた曹氏一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩・楽府を中心とする詩文学[1]。 それまで文学の中心とされていた辞賦に代わり、五言詩・楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の

  • 【速報】呉の武将・黄蓋が自由契約に! : 日刊やきう速報

    http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1352972181/ 【呉】黄蓋が自由契約 天下を目指す呉軍に激震が走った。今シーズンまで7年連続3割、5年連続20塁打を放っている 黄蓋がまさかの自由契約となった。発端はシーズンオフの某日、主君である孫権と 来シーズンの戦いについて話あっていたところ、意見のぶつかり合いがあり両者譲らず、両者間に亀裂が走ったという 孫権は「私では父上や兄上のようには従えぬということだった。それならばという事」と戦力外を通告した模様 黄蓋は「主君がアホやから戦ができへん」とこちらも譲らず、呉を去ることを決意。 この話は三国リーグ全体に知れ渡り、蜀は「まだ内容が分かっていないのでコメントできない」としたが 魏の関係者によると「既に黄蓋とは連絡を取っています。うちは強い者はすべて集まってほしいと思っています」

    【速報】呉の武将・黄蓋が自由契約に! : 日刊やきう速報
  • 陳琳 - Wikipedia

    はじめ何進に仕え、主簿を務めた。光熹元年(189年)、何進が宦官誅滅のため諸国の豪雄に上洛を促すことを図るとこれに反対したが、容れられなかった。 何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。袁紹は臧洪を包囲すると、帰順を迫る書簡を陳琳に書かせる。臧洪はその返書で陳琳のことを「故友」などと記しながら、帰順勧告は拒否し、陳琳と決別した[1]。 建安5年(200年)、官渡の戦いに先立ち、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を記した[2]。曹操はこの檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだ自分でさえ怒り心頭に発する」と評している。また、この檄文は後世、南朝梁の『文選』に、名文として収められた。 建安7年(202年)の袁紹没後は末子の袁尚に仕える。争う袁譚と袁尚、双方の登用を拒否した崔琰が幽閉されると、その擁護に努めた[3]。 建安9年(204年)、曹操に鄴城を包囲されると降伏

    werdy
    werdy 2012/11/25
    “曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に達する」と評している。”
  • 笮融 - Wikipedia

    笮 融(さく ゆう、? - 197年)は、中国後漢時代末期の武将。揚州丹陽郡の人。 正史の事跡[編集] 仏教の振興と広陵の略奪[編集] はじめ徐州の陶謙に仕え、広陵や彭城で兵糧輸送などの監督官を務めていた。しかし、やがて兵糧などの物資を奪って自立するようになる。この頃の笮融は、領内に壮麗な楼閣を備え、3,000人もの人々を収容できるような伽藍を建立した。また、毎年の仏誕節である4月8日には、盛大な法会を執り行ない、寺に至る者は5,000人に達したとされる。後の中国大陸における仏教が広まる基礎を作り出した布教者であり、中国の仏教にとっては功労者であると言える一面もある。 興平元年(194年)に、陶謙が曹操に攻められて徐州が混乱すると、下邳国の相となっていた笮融は、彭城国の相であった薛礼と共に、揚州刺史の劉繇を盟主として仰ぐようになった。また、ほぼ時を同じくして、混乱を避けるために広陵太守の趙

  • 昌豨 - Wikipedia

    昌 豨(しょう き、? - 206年)は、中国の後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。別名に「昌覇[1][2]」もある。徐州東海郡の独立勢力指導者。 生涯[編集] 泰山方面で孫観・呉敦・尹礼らと共に、臧覇を首領として活動していた。臧覇らは当初呂布と敵対したが、後に同盟者となった。 建安3年(198年)12月、呂布が曹操に滅ぼされると、臧覇らと共にいったん曹操に降伏し、青州・徐州の一部を委ねられる厚遇を受けた。 時期は不明だが、東海の襄賁で炅母が反逆した時、昌豨に通じている。この反乱は呂虔に鎮圧された。 建安4年 (199年) 、劉備が下邳で曹操に叛いたとき、昌豨は東海郡において劉備に呼応した[1]。 建安5年(200年)、劉備が曹操に敗北して袁紹の下へ逃れた後、これに続けて昌豨を撃破した[3]。 官渡の戦いの後、昌豨は再び曹操に反逆し、張遼・夏侯淵は数か月に渡ってこれを攻撃したが撃破出来なか

  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 三国志文献案内・正史

    上記・中華書局『三国志(標点)』の全訳。陳寿の文と裴松之の注の全てを訳した有り難い書籍。人名索引、裴松之注の引用書目、三国官職表(清・洪飴孫『三国職官表』の簡易版)も有り。稀(まれ)に誤訳・誤植もあるが、全体として見れば、三国志に関わる者にとってバイブルの一つである事は間違いない。世界古典文学全集に収められているが、文庫としても出版されている。(全3巻) 中国の古典シリーズ3、田済(わたる)氏の編訳。標題の通り、漢書・後漢書・三国志の列伝から何編かずつを選んで現代語訳をしたもの。『三国志』からは武帝紀・王粲伝・徐バク(しんにゅうに「貌」)伝・胡質伝・王昶伝・曹爽伝・諸葛亮伝・簡雍伝・秦フク(うかんむりに「必」)伝・関羽伝・張飛伝・周瑜伝・呂蒙伝をおさめる。巻末には、簡易的な前漢の職官表有り。 明徳出版社の中国古典新書のシリーズにおさめられている『三国志』の抄訳(しょうやく:原文の一

  • Amazon.co.jp: 諸葛孔明――「三国志」とその時代 (講談社学術文庫): 宮川尚志: 本

  • 「赤壁の戦い(レッドクリフ)」の中国版Googleマップがおもしろい

    Googleマップ中国版で、Googleが「赤壁の戦い」を超視覚化して再現したそうです。もちろんコンテンツは中国語になりますが、歴史の教科書なんて目じゃないくらいに興味をそそる内容となっています。 映画好きな人や歴史マニアに限らず、歴史・世界史を学んでいる学生にも是非見て欲しいマップです。 組織のマインドマップツールをマインドマイスターにすべき理由 伸びてる産業、会社、事業を紹介しまくるStrainerのニュースレターに登録!! 赤壁の戦いでの主要人物の動きが視覚化されたGoogleマップ 「The Battle of Red Cliffs」は赤壁の戦いから1800年経った事を記念して、Google ChinaがGoogle Mappletで制作したもの。コンテンツは現在公開されている「レッドクリフ」と連動しています。 歴史上の時系列と人物毎にまとめられ、クリックするとそのときの軍勢の動き

    「赤壁の戦い(レッドクリフ)」の中国版Googleマップがおもしろい
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  • 吉川三国志、新連載の予告記事 - 三国与太噺 season3

    1939年8月26日より中外商業新報などで連載を始めた吉川英治『三国志』ですが、それに先だって24日の夕刊に新連載の予告記事が出されていました。 作者が、新聞社が、この新連載をどのように考えていたかアピールしようとしていたか端的に窺えて、なかなか面白いです。戦前の大衆三国志観、大陸観が見え隠れしてるかなーって感じですね。 以下に全文を紹介します。太字はにゃもです。 長らく愛読を賜りました子母澤寛氏の「女夫系図」は好評裡に明日完結致しますので続いて、吉川英治氏の「三国志」を以て夕刊第一面を飾ることになりました。 呉、蜀、魏の三国鼎立に纏るこの大歴史小説「三国志」は、大衆文壇の第一人者吉川氏を得て新しい興味と感銘を盛ることと信じます。背景は今や皇軍活躍の天地、新東亜の建設と併せ考えて頂ければ興味は倍増することと思います。挿絵は南画壇の重鎮たる矢野橋村画伯にお願いしました。画伯の枯淡、雅到に富む

    吉川三国志、新連載の予告記事 - 三国与太噺 season3
  • 三国志に見る名前に関するお話、あれこれ

    三国志のうんちくを紹介して行くコーナー その1.「三国志に見る名前に関するお話、あれこれ」 そもそも、中国人には姓と名の他に字(あざな)というものがあります。 他人が名をそのまま呼ぶ事は、昔から中国では忌み嫌われておりその為、 名とは別の名、字が出来たわけです。 例えば、「劉備玄徳(りゅうびげんとく)」という呼称は厳密に言うと正しくなく「劉玄徳(りゅうげんとく)」 とか、役職名を付けて「劉予州(りゅうよしゅう)」等と呼ばれていたものと思われます。 (ただし、英傑群像では「劉備玄徳」と言う表記をあえて利用しています >>理由) 勿論、「典韋(てんい)」の様に字を持たない人物もままいたようです。因みに三国演義の作者で ある羅貫中(らかんちゅう)だと、姓が羅、名を、字が貫中となります。 さて、三国志の登場する人物達の名前、よくよく見ると気付く事があります。 例えば、関羽(雲長)、周泰(幼平

  • 三国時代の武将・曹休の墓地を発見 - 中国国際放送局

    三国時代の武将曹休の墓地が17日、河南省洛陽で発見されました。 河南省文物管理局はこの日洛陽で「曹操の族子(血は繋がっていない)にあたる曹休の墓地が、洛陽市の孟津県宗庄郷三十里舗村で発見された。墓地の東西の長さは50.6メートル、南北の幅は21.1メートルで深さは10.5メートルあり。中から散らばった人骨が見つかったが、分析によりそれは男女2人のものだと推定された」としています。(Katsu)

    werdy
    werdy 2010/05/18
    早急に保存しなくては。
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