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ブックマーク / www.aozora.gr.jp (11)

  • 菊池寛 碁の手直り表

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    werdy 2022/03/10
  • 坂口安吾 第二芸術論について

    近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでゐないから、俳句や短歌が第二芸術だといふ意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。 むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまつてるぢやないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。 俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。外国にも、バラッドもあればソネットもある。二行詩も三行詩も十二行詩もある。 然し日俳句や短歌のあり方が、詩としてあるのぢやなく俳句として

  • 鳥谷部春汀 明治人物月旦(抄)

  • ジョージ・オーウェル George Orwell The Creative CAT 訳 ファシズムとは何か

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    werdy 2019/02/02
  • 伊丹万作 戦争責任者の問題

    最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつ

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    werdy 2019/01/25
  • 坂口安吾 坂口流の将棋観

    私は将棋は知らない。けれども棋書や解説書や棋士の言葉などから私流に判断して、日には将棋はあったが、まだ当の将棋の勝負がなかったのじゃないかと思う。 勝負の鬼と云われた木村前名人でも、実際はまだ将棋であって、勝負じゃない。そして、はじめて当の勝負というものをやりだしたのが升田八段と私は思う。升田八段は型だの定跡を放念して、常にたゞ、相手が一手さす、その一手だけが相手で、その一手に対して自分が一手勝ちすればよい、それが彼の将棋の原則なのだろうと私は思う。 将棋の勝負が、いつによらず、相手のさした一手だけが当面の相手にきまっているようであるが、却々(なかなか)そういうものじゃなくて、両々お互に旧来の型とか将棋というものに馴れ合ってさしているもので、その魂、根性の全部をあげてたゞ当面の一手を相手に、それに一手勝ちすればよい、そういう勝負の根の原則がハッキリ確立されてはおらなかった。これをは

  • 河口慧海 チベット旅行記

    チベットは厳重なる鎖国なり。世人呼んで世界の秘密国と言う。その果たして然(しか)るや否やは容易に断ずるを得ざるも、天然の嶮(けん)によりて世界と隔絶し、別に一乾坤(けんこん)をなして自ら仏陀(ぶっだ)の国土、観音の浄土と誇称せるごとき、見るべきの異彩あり。その風物習俗の奇異、耳目(じもく)を聳動(しょうどう)せしむるに足るものなきに非(あら)ず。童幼聞きて楽しむべく、学者学びて蘊蓄(うんちく)を深からしむべし。これそもそも世界の冒険家が幾多の蹉跌(さてつ)に屈せず、奮進する所以(ゆえん)なるか。 余(よ)のこの地に進入せしは勇敢なる冒険家諸士に倣(なろ)うて、探検の功を全うし、広く世界の文明に資せんとの大志願ありしに非ず。仏教未伝の経典の、かの国に蔵せられおるを聞き、これを求むるの外、他意あらざりしかば、探検家としての資格においては、ほとんど欠如せるものあり。探検家として余を迎えられたる諸

  • ハンス・クリスチアン・アンデルセン Hans Christian Andersen 森鴎外訳 即興詩人 IMPROVISATOREN

    是れ予が壯時の筆に成れる IMPROVISATOREN(イムプロヰザトオレン) の譯なり。國語と漢文とを調和し、雅言と俚辭とを融合せむと欲せし、放膽にして無謀なる嘗試は、今新に其得失を論ずることを須(もち)ゐざるべし。初めこれを縮刷に付するに臨み、予は大いに字句を削正せむことを期せしに、會(たま/\)歐洲大戰の起るありて、我國も亦其旋渦中に投ずるに至りぬ。羽檄旁午(うげきばうご)の間、予は僅に假刷紙を一閲することを得しのみ。 大正三年八月三十一日觀潮樓に於いて わが最初の境界 羅馬(ロオマ)に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做(な)したる、美しき噴井(ふんせい)ある、大なる廣こうぢの名なり。貝殼よりは水湧き出でゝその高さ數尺に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの廣こうぢのさまをば銅板畫にて見つることあらむ。かゝる畫にはヰア、

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    werdy 2012/12/25
  • 福沢諭吉 勝海舟 榎本武揚 瘠我慢の説 書簡

    福沢先生の手簡 拝啓(はいけい)仕候(つかまつりそうろう)。陳(のぶれ)ば過日瘠我慢之説(やせがまんのせつ)と題したる草稿(そうこう)一冊を呈(てい)し候。或(あるい)は御一読も被成下(なしくだされ)候哉(そうろうや)。其節(そのせつ)申上(もうしあげ)候通り、何(いず)れ是(これ)は時節(じせつ)を見計(みはからい)、世に公(おおやけ)にする積(つもり)に候得共(そうらえども)、尚(なお)熟考(じゅくこう)仕候(つかまつりそうろう)に、書中或は事実の間違は有之間敷哉(これあるまじきや)、又は立論之旨(りつろんのむね)に付御意見は有之間敷哉(これあるまじきや)、若(も)しこれあらば無御伏臓(ごふくぞうなく)被仰聞(おおせきけられ)被下度(くだされたく)、小生の心は漫(みだり)に他を攻撃して楽しむものにあらず、唯(ただ)多年来(たねんらい)心(こころ)に釈然(しゃくぜん)たらざるものを記(

  • 寺田寅彦 津浪と人間

    昭和八年三月三日の早朝に、東北日の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人

  • 幸田露伴 蒲生氏郷

    大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴(くちばし)といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲(す)んで居た一夜庵(いちやあん)の宗鑑の膚(はだえ)を螫(さ)して、そして宗鑑に瘧(おこり)をわずらわせ、それより近衛(このえ)公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔(かぎゃく)を発せしめ、随(しがた)って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧(はいかい)連歌(れんが)の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅(はえ)といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅(せいよう)は肉汁を好んで溺(おぼ)れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々(いまいま)しいことは宋(そう)の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作(な)すに至らしめ、其の逐(お

    werdy
    werdy 2010/02/01
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