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  • 天正17年9月17日三河国幡豆郡貝吹郷宛徳川家康七ヶ条定書(上) - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    天正17年7月から徳川家康は写真のように統一された様式による7ヶ条の定書を郷村宛に発している。現在確認されてるだけでも240通を超えており、統一された様式をもち、直接郷村宛に発したという点において秀吉の在地掌握をある意味上回るものであったといえる。ただ領主的手作経営に百姓の使役を認めているなど、やや中世的な側面も色濃く、秀吉の検地条目と比較しながら内容を確認していきたい。 Fig.1  天正17年9月13日付家康七ヶ条定書 『岡崎市史』第1巻、1972年、498~499頁の間の口絵より (徳川家康朱印、印文「福寿」) 一、御年貢*1納所*2之儀、請取証文明鏡*3之上、少も於無沙汰*4に伴う者可為曲事、然者①地頭*5遠路令居住者、五里之中年貢可相届、但地頭其知行*6在之者、於其所*7可納所之事、 一、②陣夫者弐百俵に壱疋壱人充可出之、荷積者下方升*8可為五斗目*9、扶持米六合・馬大豆壱升地頭

    天正17年9月17日三河国幡豆郡貝吹郷宛徳川家康七ヶ条定書(上) - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年12月4日吉川広家宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    北条儀為誅伐、来春*1至于関東被成御進発条、其方事人数*2五百召連、二月中旬有上洛、尾州星崎城*3請取、自身可被在番候、委曲輝元*4・隆景*5江相達候*6、猶浅野弾正少弼*7・黒田勘解由*8可申候也、 極月*9四日*10 (朱印) 吉川侍従とのへ*11 (四、2828号) (書き下し文) 北条の儀誅伐のため、来春関東に至り御進発なさるるの条、その方こと人数五百召し連れ、二月中旬上洛あり、尾州星崎城請け取り、自身在番せらるべく候、委曲輝元・隆景へ相達し候、なお浅野弾正少弼・黒田勘解由申すべく候なり、 (大意) 北条征伐のため年明け早々関東に向け秀吉様が御出発なされると決まった。ついてはその方は軍勢を500名ほど召し連れ、2月中旬上洛し、尾張国愛知郡星崎城を請け取り、自身在番するように。詳しくは輝元・隆景に伝えている。なお浅野長吉・黒田孝高が口頭で申し述べる。 吉川元春に尾張国愛知郡星崎城へ5

    天正17年12月4日吉川広家宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年12月1日上賀茂社家中宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    当社家境内地子以下令免除訖*1、永不可有相違*2者也、 天正十七 十二月朔日*3   (朱印) 上賀茂 社家中 (四、2784号) (書き下し文) 当社家境内地子以下免除せしめおわんぬ、永く相違あるべからざるものなり、 (大意) 当社家境内地子以下免除せしめおわんぬ、永く相違あるべからざるものなり、 Fig. 1 上賀茂社周辺図 GoogleMapより作成 Table.1 天正17年12月1日付各公家社家中宛朱印状一覧 Table.2 各寺社公家所在地 Fig.2  各寺社公家所在地 「京都市」(『日大百科全書』)より作成 *1:「地子」は寺社境内などに賦課される地代(レントrent/レンテRente)のようなもの。ここでは秀吉が上賀茂社家中に対し「来ならば」納入すべき地子を「特別に」免除するといった意味で用いている。「特別に免除」した見返りに何か、たとえば忠誠を誓う、「役」を負担する

    天正17年12月1日上賀茂社家中宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 人身売買、娘の身売りを「囚人のジレンマ」モデルで表してみた - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    はじめにお断りしますが見よう見まねでつくってみた叩き台に過ぎませんので、誤解などございましたらご指摘いただけますとさいわいです。 また「囚人のジレンマ」で表現することを目的としますので「ナッシュ均衡解」などを求めようなど大それた野心を抱いているわけでもありません。 くれぐれも誤解なきようお願い申し上げます。

    人身売買、娘の身売りを「囚人のジレンマ」モデルで表してみた - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年11月28日梶原政景宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    今度北条事、致表裏、不恐天命、不顧恥辱、無道之仕立*1、無是非題目*2候、然者来春*3早〻被出御馬、可被加御誅伐之条、可成其意候、氏直不届次第被書顕、対北条被成御朱印候*4、其写為覚悟被遣之候、於彼面諸事可被仰付候、猶天徳寺*5・石田治部少輔*6可申候也、 十一月廿八日*7 (朱印) 梶原源太*8とのへ (四、2778号) (書き下し文) このたび北条のこと、表裏を致し、天命を恐れず、恥辱を顧みず、無道の仕立て、是非なき題目に候、しからば来春早〻御馬出され、御誅伐を加えらるべきの条、その意をなすべく候、氏直の不届次第書き顕わされ、北条に対し御朱印なされ候、その写し覚悟としてこれを遣わされ候、彼の面において諸事仰せ付けられるべく候、なお天徳寺・石田治部少輔申すべく候なり、 (大意) 今回の小田原攻めについて、約束を違え、天命を恐れず、恥辱を顧みることのない無道な一部始終は許されざることである

    天正17年11月28日梶原政景宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)2/止 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    (承前) 一、当年極月上旬、氏政*1可致出仕旨御請一札*2進上候、因茲被差遣津田隼人正*3・冨田左近将監*4、沼田*5被渡下候事、 一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田*6相拘候なくるみの城*7を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事、 一、秀吉若輩之時、孤*8と成て信長公属幕下*9、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈*10を枕として夜ハ*11に寝、夙に*12おきて軍忠をつくし戦功をはけます*13、然而中比*14より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐*15之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽*16、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家*17を乱し叛逆之条、是又退治畢、此外諸国叛者*18討之、降者近之、無不属麾下者、就中

    天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)2/止 - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年11月24日北条氏直宛豊臣秀吉朱印状(最後通牒)1 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    天正17年11月24日、秀吉はついに北条氏直へ最後通牒を発した。しかも当人のみならず諸大名へも「北条左京大夫とのへ」との充所と朱印を捺した正を送りつけている。原則として古文書は受け取った者の家に残されるものであるが、正が各大名家に残されるというのはきわめて珍しい。また天正5年に正三位権大納言となるも同13年に勅勘を蒙り、京都を去って堺に逼塞していた山科言継の日記「言継日記」12月16日条にも「殿下(秀吉)より北条に対して条々仰せのわけ、かくのごとし、去る月廿四日なりと云〻」と伝聞の形で全文が書き写されている。3週間後であるが、長文にもかかわらず文はもちろん様式まで正確に書き写されていて、写もしくは原を見て書き写したことは間違いない。かなり広範囲に出回っており、偶然流出したのではなく、秀吉が意図的に広めたとみるべきだろう。つまり、これは北条氏直への最後通牒であると同時に自らを「公儀」

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  • 「市場で取り引きされる1人あたりの単価と取引総量の積」は人々の生活水準のメルクマールたり得るか調べてみた - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    かなり挑発的なタイトルになってしまったが、このところ流行の数量経済史に覚える違和感の一端をド素人ながら考えてみた。 主など生活必需品の需要曲線は価格弾力性が低く、傾きが急な右下がりの曲線となる。なぜなら人間は価格が下がるまで霞をべながら「私待つわ、いつまでも待つわ」などとあみんのような悠長なことを言ってはいられないからだ。一方で価格の下落を待てる一般商品の需要曲線の傾きはゆるやかである。他方の供給量は1年ごとに作況が決まるので定数となり垂直な直線で表される。これを図示すると図1、2のようになる。 Fig.1 主など生活必需品の需給均衡点(1石あたりの米の価格を例にした場合) 人口は一定とする。なぜなら飢餓で人口が減り始めるのは凶作時に価格と供給量が均衡したあとに始まるからである。 さて図1では平年の作柄において「単価と取引総量の積」(「総生産」と仮に呼ぶ)は80,000両となる。一方

    「市場で取り引きされる1人あたりの単価と取引総量の積」は人々の生活水準のメルクマールたり得るか調べてみた - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年11月24日徳川家康宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    態差遣使者候、北条*1儀、可致出仕由御請申、沼田城*2請取之、一札之面*3氏直をハ不相立、信州真田*4持内なくるミの城*5乗捕之由、津田隼人正*6・冨田左近*7かたへ自其方之書状ニ相見候、然者北条表裏者之儀候間、来春早〻出馬、成敗之儀可申付候、早四国・中国・西国、其外国〻へ陣触申付候、其表境目之儀、又ハ人数可出之行等儀、可令談合候条、二三日之逗留ニ、馬十騎計にて急〻可被越候、彼表裏者之為使、石巻下野*8と哉らん罷上候、出抜候て、なくるミの城を取候間、為使石巻成敗雖申付候、命を助被為返候、然者右関東御使者津田隼人・冨田左近申上候ニ付、一札之上にても見計候て、沼田城可相渡由、被仰付被遣候処、城請取候刻、彼北条之表裏者二万計差越、沼田近所ニ陣取候由候、彼人数頭を見候て、隼人・左近かたより、其様躰御注進申上、其上たる*9へき儀候処、一往*10不及言上、沼田城相渡罷帰候事、如何思召候処、剰なくるミの

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  • 秀吉は本当に人身売買を禁じようとしたか - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    こういった記事をしばしば見る。 toyokeizai.net たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。 態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき旨御朱印なされ候、御家中をも御改め候てこれあらば、早〻御進上もっともに候、恐惶謹言、 長束大蔵大輔 十一月廿九日*1              正家(花押) 羽柴薩摩侍従殿*2 人〻御中 (島津家文書、1763号) この年は唐入が行われた前年の天正20年=文禄元年の翌年である。開戦1年後には捕虜のうち何かしら熟練した技を持つ者を秀吉に献上せよというのである。奴隷の原初形態とも言うべき戦争捕虜である。これはキリスト教世界の「正戦」において捕虜となった者は「正当な」奴隷であるとする認識に似ている。 次に「九州御動座記」の問題の箇所を見てみよう

    秀吉は本当に人身売買を禁じようとしたか - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 天正17年11月21日真田昌幸宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    小西行長や加藤清正に肥後天草の武装蜂起に対して指示を出した同日、東国の真田氏にも国境相論に関する文書を発している。秀吉による「天下統一」事業がそれほど簡単に進まなかったことを示していて興味深い。そのこと自体中世的秩序がいかに在地に深く根ざしていたかを物語っている。 其方相抱*1なくるみの城*2へ、今度北条*3境目者共令手遣*4、物主*5討果、彼用害*6北条方江法*7之旨候、①此比*8氏政*9可致出仕由、最前依御請*10申、縦雖有表裏*11、其段不被相構、②先被差越御上使*12、沼田城*13被渡遣、其外知行方以下被相究候処、右動*14無是非次第候、此上北条於出仕申茂、彼なくるミへ取懸討果候者共、於不令成敗者、北条赦免之儀不可在之候、得其意、堺目諸城共、来春迄人数入置、堅固可申付候、自然*15其面人数入候者、小笠原*16・河中島*17江茂申遣候、注進候て召寄彼徒党等、可懸留置候城、③対天下*1

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  • 天正17年11月21日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    (包紙ウハ書) 「    加藤主計頭*1とのへ  」 書状被加御披見候、志岐城為成敗、小西*2相動二付、人数相添遣、自身*3又渡海之旨尤候、然而為後詰天草出候処ニ、其方於手前*4追崩*5、悉切捨之由手柄候、遠路首不及差上候、重而*6志岐・天草物主*7共申付次第、彼首共ハ可持上候、猶以及行之儀、涯分*8惜手*9無越度様ニ、小西摂津守可相談候、侮候て卒尓*10之動不可仕候、猶浅野弾正少輔*11・増田右衛門尉*12可申候也、 十一月廿一日*13 (朱印) 加藤主計頭とのへ (四、2757号) (書き下し文) 書状御披見を加えられ候、志岐城成敗のため、小西相動くにつき、人数相添え遣わし、自身また渡海の旨もっともに候、しかりて後詰として天草出で候ところに、その方手前において追い崩し、ことごとく切り捨つるの由手柄に候、遠路首差し上ぐるに及ばず候、重ねて志岐・天草物主ども申し付け次第、かの首どもは持ち上

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  • 天正17年11月11日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    小西摂津守*1志岐・天草*2之奴原*3令成敗二付、為加勢差遣佐々平左衛門*4之由尤候、自分*5相越、不残申付両島*6を、首可差上旨被仰出候、人数*7入*8候事候者、摂津守申次第、其方も同前可相勤*9候也、 十一月十一日*10 朱印 加藤主計頭殿へ*11 (四、2734号) (書き下し文) 小西摂津守志岐・天草の奴原成敗せしむるにつき、加勢として佐々平左衛門差し遣さるの由もっともに候、自分相越し、残らず両島を申し付け、首差し上ぐべき旨仰せ出だされ候、人数入り候事にそうらわば、摂津守申し次第、其方も同前相動くべく候なり、 (大意) 小西行長が志岐・天草のやつらを攻めるにあたり、加勢として佐々平左衛門を派遣したとのこと、実にもっともなことである。そなたもそこへ赴き、両島を残るところなく制圧し、首を差し出すようにとの仰せである。軍勢が必要な場合、行長からの申し出があり次第、そなたも同様に軍事行動を

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  • 天正17年11月6日北郷時久宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    就唐船*1相着、如目録*2到来、種〻取揃之段、別而悦思候、猶石田木工頭*3可申候也、 十一月六日*4 (朱印影) 郷一雲軒*5 (書き下し文) 唐船相着くについて、目録のごとく到来し、種〻取り揃えの段、べっして悦び思しし候、なお石田木工頭申すべく候也、 (大意) 唐船が到着し、目録にある貨物が届き、様々な商品を取り揃えているとのこと、秀吉様はことのほかお喜びである*6。なお詳細は石田正澄が口頭で述べる。 (四、2731号) Fig.1 日向国庄内地方周辺図 『日歴史地名大系 鹿児島県』より作成 Fig.2 16世紀、明への倭寇行動地域と行動回数 横軸は上から順に後金、明、日年号 Fig.3 16世紀後半、明への倭寇行動地域と行動回数 Fig.4 16世紀の環シナ海世界 GoogleMapより作成 文書は秀吉が島津氏の家臣である北郷時久に充てたものである。島津氏の領国内に「唐人」

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  • 天正17年10月3日松浦兵部卿法印宛豊臣秀吉朱印状 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    (包紙ウハ書) 「       松浦兵部法印*1 (異筆) 「到来 天ノ十七 十一ノ七日亥刻」*2 」 急度被(闕字)仰出候、①日国〻之事者不及申、海上迄静謐ニ被仰付候*3故、従大唐*4令懇望、相渡候進物之船罷出候処、去春*5②其方自分領号商売船*6、てつくわい*7と申唐人為大将、八幡*8ニ罷越、彼唐船之荷物令海賊候由、被(闕字)聞召候間、右之商売舟之由申候て、去春罷出候てつくわい・其外同船之輩、何も不残可差上候、於此方被遂御糺明、可(闕字)被仰付候、自然*9彼者共何角申族有之、於不罷出者、其方迄可為曲事候条、成其意、早〻可差上候、猶小西摂津守*10可申候也、 十月三日*11 (朱印) 松浦兵部卿法印 (四、2722号) (書き下し文) 急度仰せ出だされ候、①日国〻のことは申すに及ばず、海上まで静謐に仰せ付けられ候ゆえ、大唐より懇望せしめ、相渡し候進物の船罷り出で候ところ、去る春②その

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  • 天正17年10月1日石田三成・大谷吉継宛豊臣秀吉朱印状(検地掟) - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    検地御掟条〻 ①一、田畠屋敷共ニ五間*1六拾間之定、三百歩*2ニ縄打*3可仕事、 ②一、田地上、京枡*4壱石五斗代*5、中壱石参斗代、下壱石壱斗代ニ可相定、其ゟ下〻ハ見計*6可申付事、 ③一、畠上壱石壱斗、中壱石、下八斗ニ可相定、其ヨリ下〻ハ見計可申付事、 ④一、給人百性*7ニたのまれ*8、礼義*9・礼物*10一切不可取之、至于後日も被聞召付次第、可被加御成敗事、 ⑤一、御兵粮被下候上ハ、自賄*11たるへし、但さうし*12・ぬか*13・わら*14ハ百姓ニ乞可申事、 天正十七年十月朔日*15(朱印) 石田治部少輔とのへ*16 大谷刑部少輔とのへ*17 (四、2717号) (書き下し文) 検地御掟条〻 ①ひとつ、田畠屋敷ともに五間・六拾間の定め、三百歩に縄打仕るべきこと、 ②ひとつ、田地上、京枡壱石五斗代、中壱石参斗代、下壱石壱斗代に相定むべし、それより下〻は見計らい申し付くべきこと、 ③一、

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  • 天正17年9月28日太田牛一宛豊臣秀吉朱印状写(蔵入目録) - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    上山城*1御蔵入目録事 一、五百六拾五石七斗      寺田*2 一、百八拾九石九斗       ミつし*3 一、百四拾参石壱斗       なしま*4 (中略) 一、五十石           ひらを*5 合弐千参百参拾九石六斗 右令執沙汰*6、可致運上*7候也、 天正十七年九月廿八日*8 秀吉朱印 太田又助とのへ*9 (四、2715号) (書き下し文と大意は省略した) Fig.上山城関係図 『日歴史地名大系 京都府』より作成 Table. 上山城蔵入地一覧 山城国のうち綴喜、相楽の2郡2340石ほどの地を太田牛一が蔵入地代官として支配していたことを示す史料である。 こういった数値のみの史料を読むのは、砂を嚙むような作業だが重要である。 *1:南山城のことか *2:山城国綴喜郡寺田村、下図、下表参照。以下同じ *3:水主 *4:奈島 *5:平尾 *6:トリザタ、支配する *7:年貢など

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  • 天正17年9月28日上杉景勝宛豊臣秀吉判物 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    書状加披見候、伊達左京大夫*1事、何様ニも上意*2次第之旨、御請*3通被聞召候、乍去会津*4之儀於不返渡者、被差遣御人数*5、急度可被仰付候条、成其意、堺目等之儀、佐竹*6相談、丈夫可申付候事肝要候、猶以会津之事如前〻被仰付候*7ハてハ不叶儀候条、佐竹可有上洛候由候共、彼面於猥者先無用*8、得其意、堅固行*9専一候、委細増田右衛門尉*10・石田治部少輔*11可申候也、 九月廿八日*12 (花押) 羽柴越後宰相中将とのへ*13 (四、2714号) (書き下し文) 書状披見を加え候、伊達左京大夫のこと、何様にも上意次第の旨、御請け通り聞し召し候、さりながら会津の儀返し渡さざるにおいては、御人数を差し遣わされ、急度仰せ付けらるべく候条、その意をなし、堺目などの儀、佐竹相談じ、丈夫申し付くべく候こと肝要に候、なおもって会津のこと前〻のごとく仰せ付けそうらわでは叶わざる儀に候条、佐竹上洛あるべく候由

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  • 天正17年9月27日細川藤孝・忠興宛豊臣秀吉判物(領知充行状) - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    丹後一国領知方拾壱万七百石之事、対父子一軄*1仁令扶助内、軍役之儀、少将*2三千人、幽斎*3千人、都合四千之可為役儀、此之*4条全可領知*5者也、 天正十七年 九月廿七日*6 (花押) 羽柴丹後少将とのへ 幽斎 (四、2713号) (書き下し文) 丹後一国領知方11万700石のこと、父子に対し一軄に扶助せしむるうち、軍役の儀、少将三千人、幽斎千人、都合四千の役儀たるべし、この条まったく領知すべきものなり、 (大意) 丹後一国の領知分11万700石については忠興・幽斎父子に一職に与えるので、軍役は忠興3000人、幽斎1000人合計4000人負担するように。この旨理解しなさい。 文書は領知充行状なので朱印状ではなく花押を据えた判物で発せられている。非人格化著しい朱印状より判物は厚礼であるが、署名がなく花押のみというのは「とのへ」*7という敬称とともに薄礼である。それでも判物で記されるというこ

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  • 天正17年9月24日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    於其国*1寺沢越中守*2相註伐置候大仏*3材木・其外御用木共、依由断遅怠、無是非次第候、然者為御奉行水原亀介*4・美濃部四郎三郎*5被指下候条、急度到尼崎*6可相届候、猶以於無沙汰者、可為曲事候、委細浅野弾正少弼*7・増田右衛門尉*8可申候也、 九月廿四日*9  御朱印 福島左衛門大夫とのへ*10 (四、2712号) (書き下し文) その国において寺沢越中守相註し伐り置き候大仏材木・その外御用木とも、由断により遅怠し、是非なき次第に候、しからば御奉行として水原亀介・美濃部四郎三郎指し下され候条、きっと尼崎に到り相届くべく候、なおもって無沙汰においては、曲事たるべく候、委細浅野弾正少弼・増田右衛門尉申すべく候なり、 (大意) 伊予国の、寺沢広政が註文し伐った大仏の用材、その他の御用材木などがそなたの「油断」により到着が遅れたことは仕方のないことであるので、奉行として水原吉一・美濃部四郎三郎を

    天正17年9月24日福島正則宛豊臣秀吉朱印状写 - 日本中近世史史料講読で可をとろう