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本能寺の変に関するx4090xのブックマーク (3)

  • 「本城惣右衛門覚書」のうち本能寺への行軍の部分を読む 2020年11月1日追記あり - 日本中近世史史料講読で可をとろう

    (前略) 一、あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入申候などゝいふ人候ハヽ、それハミなうそにて候ハん、と存候、其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候、其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿とり相ニて御入候、それへ、すけニ、あけちこし申候、山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京ヘと申候、我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候、ほんのふ寺といふところもしり不申候、人じゆの中より、馬のり二人いで申候、たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、我等其あとニつき、(以下略) 『新修亀岡市史資料編』第二巻、46~47頁 (書き下し文) ひとつ、明智謀反いたし、信長様に腹召させ申し候時、能寺へ我等より先へ這い入り申し候などと云う人候

    「本城惣右衛門覚書」のうち本能寺への行軍の部分を読む 2020年11月1日追記あり - 日本中近世史史料講読で可をとろう
  • 明智光秀の書状が1日限定で公開 岐阜 美濃加茂 | NHKニュース

    戦国武将の明智光秀が能寺の変のあとに書いたとされる書状の原が、所蔵している岐阜県美濃加茂市の博物館で、1日限定で一般に公開されました。 美濃加茂市の古文書収集家が原を見つけ地元の博物館に寄贈しましたが、その内容から歴史ファンの反響が大きく1日、1日限定で一般に公開されました。 書状には能寺の変の10日後の「六月十二日」の日付があり、位の高い人という意味の「上意」という言葉を使ってその人物が「御入洛」と書かれています。 これについて三重大学教育学部の藤田達生教授は、信長によって追放されていた室町幕府の将軍、足利義昭が京都に戻って来ることを意味し、光秀が能寺の変を起こしたのは室町幕府の再興が目的だったのではないかとする研究成果をまとめています。 会場を訪れた人は「能寺の変は謎の多い出来事なので、その解明につながるかもしれない貴重な資料を生で見ることができて感激しました」と話していま

    明智光秀の書状が1日限定で公開 岐阜 美濃加茂 | NHKニュース
  • 古文書:本能寺の変、仏教界は喝采「信長は清盛の再来」 | 毎日新聞

    金西寺に伝わる「当寺御開山御真筆」を手にする高崎俊幸住職(左)と調査した島田大助・豊橋創造大教授=愛知県豊橋市役所で、石塚誠撮影 愛知・豊橋の寺で発見 悪感情読み取れる 愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書に、織田信長を批判的に評した詩文が引用されていたと島田大助・豊橋創造大教授(日近世文学)や高崎俊幸住職が発表した。島田教授は、仏教界の信長に対する悪感情が読み取れるとしている。 文書は、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」。 その冒頭に、近江国(現在の滋賀県)出身で京都・東福寺の住持を務めた集雲守藤の別号とされる江湖散人の詩文が引用されていた。詩文は、信長が明智光秀に討たれた能寺の変の翌月の1582年7月に作られたとみられる。

    古文書:本能寺の変、仏教界は喝采「信長は清盛の再来」 | 毎日新聞
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