小野田寛郎の話は最初からつじつまがあっていなかった。理由は帰国前から産経を中心とする右翼陣営の『大日本帝国陸軍将校小野田寛郎』という一大キャンペーンがはられたせいだ。 2年前の1972年にグアム島から帰国した残留日本兵の横井庄一軍曹の第一声は、『恥ずかしながら帰って参りました』、であって、28年間所持していた天皇陛下から賜ったはずの銃はすっかり錆びついていてとても使い物にならなかった。 これでは日本帝国陸軍の名がすたる、というので、これは横井庄一氏が単なる一兵卒、しかも市井の縫製屋出身であったからだ、ということであっさり片ずけられてしまった。 小野田氏にとって銃、刀は生存の手段であったということ、彼がとにかくも将校であった、という2つの事実を都合よく結びつけて、右翼陣営は小野田氏を最後の日本兵に祭り上げることに懸命となった。 この背景には小野田氏が帰国した1974年当時の社会情勢がある。