「若紫」の帖の表紙(左)。上部に題名が書かれた細長い紙片(題簽=だいせん)が貼られている。保護するため、さらに表紙が付けられている=京都市上京区で、川平愛撮影 紫式部が紫式部と呼ばれるゆえんとなった帖、それが「若紫」だ。貴公子が戯れに「若紫」と呼び掛けてきた、との描写が、式部の日記にある。日付は寛弘5(1008)年11月1日。この時点ですでに「源氏物語」が流布していたことが裏付けられる挿話だ。「若紫」は物語の節目であるだけでなく、文学史的にも重要な帖なのである。 藤原定家はそれから2世紀後、戦乱の時代を生きた。歌人として知られるが、古典の保存に尽くした文学者でもある。人の手で書写が繰り返されるうちに原文が崩れていく作品群を校訂し、しかるべき形で後世に残そうとした。「古きよき」貴族の時代を、紙の上にとどめることが使命と心得ていたのだろう。