自民党幹事長を務め、党内リベラル派として自社さ連立政権を支えた加藤紘一(かとう・こういち)氏が9日午後0時45分、肺炎のため都内の病院で死去した。77歳。山形県出身。自民党関係者が明らかにした。 東大卒業後、外務省勤務を経て昭和47年の衆院選で初当選。13期務めた。 首相を目指し、加藤派の領袖として一時は有力候補と目された。しかし、平成12年に森喜朗内閣の倒閣を目指す「加藤の乱」を起こしたが敗れ、挫折した。 昭和59年に第2次中曽根康弘内閣で防衛庁長官に就任。平成3年には宮沢喜一内閣で官房長官を務め、国連平和維持活動(PKO)協力法成立に尽力した。この頃、小泉純一郎元首相、山崎拓元自民党副総裁と「反経世会(旧竹下派)」を掲げてYKKトリオを結成した。中国要人とのパイプが太く、日中友好協会会長を務めた。