福田内閣支持率50%超に見る日本人の知性の劣化 エントリのタイトルにあるように福田内閣の支持率が50%を超えたという事象をとらえて、id:kojitakenさん(以下、氏)が「日本人の知性の劣化」に言及されている。以下の点に疑問をもった。一つは内閣支持率でそれをみるということにたいする疑問。もう一つは、「知性の劣化」の実体について。 もともと内閣支持率という特定の時点の値を論じてもそれほどの意味があるとは私には思えない。たとえば支持率50%という調査結果が示すのは、その時点で調査対象者のうち半分の人が内閣を支持すると表明したという事実のみである。「どんな内閣であっても、発足当初は支持率が高めに出るものではある」と氏自身がいわれるように、支持率は就任時には高く出て、次第に下がっていき後任との交代時期には低くでるのが経験則だろう。現に、データ*1によれば、その傾向は明らかだから。むしろ支持率に
何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。*1 「対案を出せ」論法批判 批判は、あくまでも問題の所在を示す。その解決が可能かどうかは分からない。大抵、示せない。しかし、それが問題であるならば、明らかに問題なのだ。たとえば、必ずしも死ななければならない理由がないのに、人が死ななければならなくなっているとき、それは問題だ。そのような状況は、「あってはならない」こととして認識されなければならない。そのようなことが「現実に起こらない」ために、何かをしなければならない。私たちは現にある現実を、そのどこかを、変更しなけ
政治の世界は一瞬先が闇――。安倍総理の辞任発言、そして直後の福田総裁誕生への流れは、まさにその言葉を地で行くような展開であった。 安倍総理の辞任直後は、麻生幹事長の総裁就任が確実とみられていたが、小泉前総理が不出馬を表明し、町村派(旧森派)が福田支持に向かうとみるや、古賀派、山崎派、谷垣派と、雪崩のように福田支持の輪が広がっていったのである。 今回の総裁選は、既に半日にして先が見えてしまった。23日が投票日であるが、もはや結果は見えている。地方票がほぼ100%麻生氏に流れて、国会議員の相当数の寝返りがない限り、福田総裁誕生で決まりである。 では、福田総裁・総理の下で、今後の日本の経済政策はどうなるのか。麻生氏の持論とする経済政策と比較した上で、予想してみることにしよう。
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