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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/zoot32 (4)

  • 物語にできること - 空中キャンプ

    こうして大きな災害や社会的事件が起こるたびに、わたしは、物語の役割はなにかということについて考える。小説映画はこのようなときになにができるのだろうか? わたしは小説映画を──つまりはストーリーを語るという行為を──なによりも支持する者ですが、いま「物語」はなにかのんきな娯楽であるようにも見えてしまう。行方のわからない人びとが数多くいるとき、傷ついた人びとがどこかで助けを待っているとき、まずなにより必要とされるのは彼らを救助することであり、からだを休める場所とべものを提供し、さらなる被害をい止めることであるためだ。 地震の翌日、料品の買い出しのために下北沢の街を歩きながら、わたしはふと「大きな問題に直面したとき、物語は無力なのではないか」との疑念を持たずにはいられなかった。ふだんであれば週末に封切られた映画をたのしそうに追いかけまわしているわたしの友人たちも、昨日は映画館に出向くこ

    物語にできること - 空中キャンプ
    dudley_ty
    dudley_ty 2011/03/13
    人は多かれ少なかれ「物語」を必要としている。
  • 『あの日、欲望の大地で』を見たゼ! - 空中キャンプ

    渋谷にて。すばらしかったです。ギジェルモ・アリアガという脚家(『21グラム』『バベル』等)の初メガホンなのですが、やはり脚家らしい緻密な物語の組み立てがみごとで、エンディングへ向けてうねるように進んでいくストーリーにはっとしました。ふたりの女性のエピソードを、時間軸の移動や場面転換で細かく見せていく手法も効果的で、後半ではつい、「やっぱりこいつか……!」などと、わかりやすい反応をしてしまいました。 たとえば、『レスラー』が、男の身勝手さも含めた「男性性」を描いていたように、この映画は、まるで女性版『レスラー』のようであって、せっかくの可能性を取りこぼしてしまう弱さ、信頼を得るチャンスをことごとくしくじってしまう情けなさを、女性というフィルターを通して描いているのだと、わたしはおもう。この映画は、かろうじてハッピーエンドらしき予感をもって終わるが、それでも、ストーリーはどこか後悔と煩悶に

    『あの日、欲望の大地で』を見たゼ! - 空中キャンプ
  • 私たちまだ死んでない - 空中キャンプ

    サリンジャーは、「ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー」という、それだけですぐにユダヤ系だとわかってしまう名前を隠すために、ずっと、JDサリンジャーと名乗っていたのだという。かくいう私も、ちょっとだけそれに似た理由で、たかこ BLと名乗っている。BLがなにを略しているのかを、私は口にすることができない。だから私は、行儀のいいタクシー運転手みたいに、余計なことをいわず、どこへいってもできるだけおとなしくしている。 私たちの日での生活はいくぶんきゅうくつだ。いつも、誰かに見つかってしまわないかとそればかりを心配している。三者面談のときには、お父さんにきちんとひげをそってスーツを着てもらうようにおねがいしなければいけなかった。「ちゃんとしたスーツを着てね」と私はいった。「なるべく原理主義者っぽくないやつ」。お父さんは肩をすくめて、「わかってるよ。俺は三者面談にはターバンを巻いていかない主義な

    dudley_ty
    dudley_ty 2009/09/11
    二重生活の背徳と魅力。
  • 他人の頭のなか - 空中キャンプ

    携帯電話の画面を他人から見えないようにガードするシールについてどうおもうかは、人によって意見の分かれるところである。人は弱さゆえ、ふと気がつくと、携帯の画面を隠すシールを買い求めてしまう。他人の視線が気になるのはやはり電車だが、たとえ携帯の画面を見られたところで、しょせんは知らない人だし、見られたからどうなんだとおもうこともある。しかし同時に、自分がこれから送ろうとしているメールの内容などを他人に見られるとなんだか恥ずかしいという気持ちも理解できる。 誰でも一度は、「きわめて深刻な内容のメールを送受信している他人」を目撃してしまったことがあるのではないか。わたしにもある。痴情のもつれと表現するしかない、かなりきわどい内容のメッセージを異性に送信しようとしている人を電車内などで見かけると、その送信待った! と心で悲鳴をあげてしまう。それほどに深刻で、愉快のかけらもないメールを送ったところで、

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