エントリーの編集

エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
摂家将軍・九条(藤原)頼経について~哀しむべし、哀しむべし - 北条高時.com
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています

- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
摂家将軍・九条(藤原)頼経について~哀しむべし、哀しむべし - 北条高時.com
九条(藤原)頼経について書いておきたい。源実朝公のあと、頼朝公の遠縁として九条家から迎えられた「... 九条(藤原)頼経について書いておきたい。源実朝公のあと、頼朝公の遠縁として九条家から迎えられた「摂家将軍」のことじゃよ。 九条(藤原)頼経 寅年寅月寅刻に生まれたため「三寅」 将軍宣下と竹御所との結婚 北条との対立と宮騒動 晩年の九条頼経 寅年寅月寅刻に生まれたため「三寅」 頼経が生まれた九条家は五摂家のひとつで、藤原北家嫡流の藤原忠通の六男・九条兼実を祖とする。藤原基経のとき、京都九条にあった九条殿に住んだことが家名の由来とされていて、九条の坊名から「陶化殿」とも呼ばれる。 九条兼実の孫・道家の子、教実、良実、実経は頼経の兄弟にあたり、それぞれ九条家、二条家、一条家に分かれ、これにより藤原北家近衛流とあわせてて五摂家が成立した。 九条兼実はもともと平氏政権、後白河院制には批判的であった。そこで兼実は源頼朝公に接近し、その推挙もあって摂政関白をつとめた。頼経は建保6年1月16日(1218年