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長谷川利行 矢野文夫著 1974年5月30日発行 株式会社美術出版社版より抜粋 熊谷登久平 - 熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター
104頁より、読みやすいよう熊谷明子が行間開けました。 熊谷登久平(独立会員・死去)が、当時の利行の様... 104頁より、読みやすいよう熊谷明子が行間開けました。 熊谷登久平(独立会員・死去)が、当時の利行の様子をよく表現した追想を、「日本美術」(昭和四十二年十月号)に書いているので、引用してみる。 「そもそも、私が長谷川利行と知り合ったのは、大正十五年、藤の花が綺麗に咲いている五月だった。(注・これは熊谷の錯覚で昭和二年九月が正しい)根津八重垣町の清秀館という、明治初期には遊郭だった三階建ての下宿屋に、矢野文夫、村井武生などの詩人たちが下宿していた。私は中学の同級生(岩手県立一関中学校)の矢野文夫君を訪ねて行ったら、白地の一重の絣に紺の羽織を着た、浪花節語りのような男がいて、矢野君は『絵を描いている長谷川利行氏だ』と紹介した。私はこの清秀館から一町ほど藍染橋に寄った北洲亭という西洋料理店の裏の家の二階に、熱海の(結核)療養先から帰って、また絵でも描こうと引移ってきていたのだった。」 利行と熊谷
2019/09/16 リンク